日曜日, 2月 08, 2026

第十八話

 土曜日の昼下がり。

 あかりと拓海は、駅前の小さな商店街を歩いていた。ガラス張りの喫茶店の窓越しに見える、春色のワンピースを着た自分の姿がふと視界に入る。柔らかな生地が風に揺れ、拓海の隣を歩く足取りも自然と軽くなる。


 「今日の服、似合ってるな」

 拓海の何気ない一言に、あかりは頬をほんのり染めて笑った。

 ——最近のデートでは、もう男装をすることはなくなっていた。女の子としての自分を意識して、服も仕草も、年相応の女子高生らしいものへと変わっていった。

 男装は、自分の殻を破るためのきっかけだった。でも、あの頃のように必要以上に背伸びをすることも、男の自分を演じることも、今はもうしなくていい。そう思える日が続いていた。


 ふたりは喫茶店の前で立ち止まり、ランチのメニューを眺めて中へ入った。古い木製のドアを開けると、カランとベルの音が響き、深煎りのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 ——ここは、冴香と最初に出会った場所だった。

 けれど今は、その記憶も少し遠く、曖昧な霞の中に沈みかけている。


 席に着くと、窓から差し込む午後の陽射しがテーブルを照らす。拓海は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。

 あかりはスマホを手に取り、何気なくタイムラインを眺めていた。そのとき——


 「……やっぱり、あなただったのね」


 低く、よく通る声が耳に届いた。

 顔を上げた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


 そこに立っていたのは、冴香——。

 けれど以前の彼女とは、まるで別人のようだった。


 漆黒のジャケットは身体のラインを引き締め、深く開いたVゾーンからは真っ白なシャツが覗く。ネクタイは緩く垂れ、袖口からは細くしなやかな手首が見えた。艶やかな黒髪はサイドでまとめられ、顔立ちは一層際立っている。

 男装、と呼ぶにはあまりに洗練された、男でも女でもない中性的な美しさ——まさに「麗人」という言葉がぴったりだった。


 周囲の客が振り返り、目を奪われているのが分かる。

 その中心で、冴香はまっすぐあかりを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 「……お久しぶり」

 その笑みは、以前の大人びた微笑みよりも、どこか挑発的だった。

 「こんなところで会えるなんて、運命かしら」


 あかりは息を呑んだ。

 ——なぜ、今? どうして、この姿で?

 心臓が速く脈打ち、耳の奥が熱を帯びていく。


 「今日は……友達と?」

 「……うん」

 答える声が少し掠れてしまう。


 冴香はあかりの向かいの空いた席に、何のためらいもなく腰を下ろした。香水のほのかな香りがふわりと漂い、その存在感に圧倒される。

 あかりは視線を逸らそうとするが、自然と目が吸い寄せられてしまう。


 「変わったわね、あかりちゃん」

 「え……?」

 「前はもっと、自分を守るために殻をかぶっていた。今は……素直な顔をしてる」

 冴香の目は柔らかくも鋭く、心の奥を覗き込むようだった。


 言葉を返そうとして、口が動かない。

 胸の奥で、懐かしいような、新しいような感情が渦を巻く。

 ——憧れ? ときめき? それとも、もっと……。


 冴香は微笑み、テーブルの端に指先を置いた。

 その仕草だけで、空気が少し張りつめる。


 「あのときのあなたも素敵だったけど、今のあなたは……もっと魅力的よ」


 ドキ、と心臓が跳ねる。

 言葉の意味を理解するより早く、頬が熱くなった。

 ——拓海が隣にいない今、この瞬間の自分の心は、どこへ向かおうとしている?


 冴香は立ち上がり、軽く会釈をして「またね」とだけ言い残して去っていった。

 背中がドアの向こうに消えるまで、あかりは何もできなかった。


 間もなく、拓海が戻ってきた。

 「どうかした?」と笑顔で尋ねる声に、あかりは慌てて「ううん、何でもない」と返す。


 けれど、胸の鼓動はまだ落ち着かない。

 ——さっきまで忘れかけていた感情が、確かに蘇ってしまった。

 それは、拓海への恋とは違う、けれど確かに自分の中に存在する、もう一つの熱だった。


 その日、あかりは拓海と並んで歩きながら、ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 そこには、恋人と過ごす女の子の笑顔と、さっき冴香に見せたはずの、知らない自分の表情が重なっていた——。