土曜日の昼下がり。
あかりと拓海は、駅前の小さな商店街を歩いていた。ガラス張りの喫茶店の窓越しに見える、春色のワンピースを着た自分の姿がふと視界に入る。柔らかな生地が風に揺れ、拓海の隣を歩く足取りも自然と軽くなる。
「今日の服、似合ってるな」
拓海の何気ない一言に、あかりは頬をほんのり染めて笑った。
——最近のデートでは、もう男装をすることはなくなっていた。女の子としての自分を意識して、服も仕草も、年相応の女子高生らしいものへと変わっていった。
男装は、自分の殻を破るためのきっかけだった。でも、あの頃のように必要以上に背伸びをすることも、男の自分を演じることも、今はもうしなくていい。そう思える日が続いていた。
ふたりは喫茶店の前で立ち止まり、ランチのメニューを眺めて中へ入った。古い木製のドアを開けると、カランとベルの音が響き、深煎りのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
——ここは、冴香と最初に出会った場所だった。
けれど今は、その記憶も少し遠く、曖昧な霞の中に沈みかけている。
席に着くと、窓から差し込む午後の陽射しがテーブルを照らす。拓海は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。
あかりはスマホを手に取り、何気なくタイムラインを眺めていた。そのとき——
「……やっぱり、あなただったのね」
低く、よく通る声が耳に届いた。
顔を上げた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
そこに立っていたのは、冴香——。
けれど以前の彼女とは、まるで別人のようだった。
漆黒のジャケットは身体のラインを引き締め、深く開いたVゾーンからは真っ白なシャツが覗く。ネクタイは緩く垂れ、袖口からは細くしなやかな手首が見えた。艶やかな黒髪はサイドでまとめられ、顔立ちは一層際立っている。
男装、と呼ぶにはあまりに洗練された、男でも女でもない中性的な美しさ——まさに「麗人」という言葉がぴったりだった。
周囲の客が振り返り、目を奪われているのが分かる。
その中心で、冴香はまっすぐあかりを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「……お久しぶり」
その笑みは、以前の大人びた微笑みよりも、どこか挑発的だった。
「こんなところで会えるなんて、運命かしら」
あかりは息を呑んだ。
——なぜ、今? どうして、この姿で?
心臓が速く脈打ち、耳の奥が熱を帯びていく。
「今日は……友達と?」
「……うん」
答える声が少し掠れてしまう。
冴香はあかりの向かいの空いた席に、何のためらいもなく腰を下ろした。香水のほのかな香りがふわりと漂い、その存在感に圧倒される。
あかりは視線を逸らそうとするが、自然と目が吸い寄せられてしまう。
「変わったわね、あかりちゃん」
「え……?」
「前はもっと、自分を守るために殻をかぶっていた。今は……素直な顔をしてる」
冴香の目は柔らかくも鋭く、心の奥を覗き込むようだった。
言葉を返そうとして、口が動かない。
胸の奥で、懐かしいような、新しいような感情が渦を巻く。
——憧れ? ときめき? それとも、もっと……。
冴香は微笑み、テーブルの端に指先を置いた。
その仕草だけで、空気が少し張りつめる。
「あのときのあなたも素敵だったけど、今のあなたは……もっと魅力的よ」
ドキ、と心臓が跳ねる。
言葉の意味を理解するより早く、頬が熱くなった。
——拓海が隣にいない今、この瞬間の自分の心は、どこへ向かおうとしている?
冴香は立ち上がり、軽く会釈をして「またね」とだけ言い残して去っていった。
背中がドアの向こうに消えるまで、あかりは何もできなかった。
間もなく、拓海が戻ってきた。
「どうかした?」と笑顔で尋ねる声に、あかりは慌てて「ううん、何でもない」と返す。
けれど、胸の鼓動はまだ落ち着かない。
——さっきまで忘れかけていた感情が、確かに蘇ってしまった。
それは、拓海への恋とは違う、けれど確かに自分の中に存在する、もう一つの熱だった。
その日、あかりは拓海と並んで歩きながら、ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、恋人と過ごす女の子の笑顔と、さっき冴香に見せたはずの、知らない自分の表情が重なっていた——。