(19)
――あたたかい。
健人は、そのひとことだけで満たされていた。
ピンクの光は柔らかな膜のように全身を包み、肌を優しく撫でる。
そこには不安も痛みも存在せず、ただ甘い香りと心地よい温もりだけがあった。
その中に、美咲の母・綾乃の姿があった。
先ほどまでの青白い燐光に揺らめく姿は消え去り、不安と怯えに彩られた顔ももうない。
代わりにあったのは、安心に満ちた微笑と、どこか恍惚とした安らぎの表情だった。
――ああ……。
その穏やかな顔を見ていると、健人の胸の奥にあった緊張も、ほどけていった。
まるで綾乃の安心感がそのまま自分へ流れ込んでくるかのように、互いの心が共鳴していく。
それは、美咲を支えるときに感じた心の重なりとはまた違う、母性的な大きさに包まれているような感覚だった。
ふと気づくと、自分と綾乃はゆるやかに抱擁していた。
それは恋人のように強く抱きしめ合うものではなく、眠る子供をあやす母の腕のような柔らかい抱擁。
光に満ちた空間で横たわりながら、二人の身体はふわりと重なり合い、境界を失っているように思えた。
「どうして……こんなことに……」
健人は、戸惑いと不思議さが入り混じった声で呟いた。
その問いかけに、綾乃は静かに首を振り、耳もとへ囁く。
その声は波の音のように穏やかで、けれど心に直接届く。
「今は……何も考えないで。……ゆっくり……おやすみなさい」
母のような慈愛を帯びた言葉。
その響きが健人の心をすべて解きほぐし、瞼を重くする。
「……あ……」
抵抗することなく、健人はまどろみに身を委ねた。
光に揺蕩う中で、綾乃の微笑みと温もりが最後に残り、深い眠りへと引き込まれていった。
――そして。
どれほどの時間が経ったのかは分からない。
闇の底から浮かび上がるように、健人は再び自分の意識を取り戻し始めた。
――揺さぶられている。
肩に何度も触れる感触があり、誰かの声が遠くから届いてくる。
「……ん……」
重たい瞼をようやく持ち上げると、そこには涙に濡れた美咲の顔があった。
暗がりの中、月明かりが障子越しに差し込み、彼女の瞳が濡れたように輝いている。
「健人くん! よかった……! 気がついたのね……!」
美咲は健人の肩を強く握りしめ、必死に揺さぶっていた。
その声は安堵と泣き声が入り交じり、どれだけ彼女が恐怖と不安の中で待っていたのかが伝わってくる。
健人は一瞬、まだ自分がどこにいるのか理解できなかった。
夢とも幻ともつかぬピンクの光の余韻がまだ脳裏に残っていたからだ。
だが、目を凝らせばここは見覚えのある和室。
畳の感触が背に伝わり、天井には梁が黒々と横たわっている。
そのとき、健人は自分の身体が綾乃と重なるように倒れていることに気づいた。
綾乃の姿はそこに確かにある。
しかし彼女は静かに目を閉じており、まるで深い眠りに落ちているかのようだった。
その身体も、はっきりと輪郭が見えるのに、どこか光の残滓を纏っているように見えた。
「……俺……」
健人は掠れた声で呟いた。
「……何が……」
けれど、その続きを口にする前に、美咲の手が彼の頬に触れた。
小さく震えるその指先には、温かさがあった。
「もういいの。……無事でよかった」
美咲の声は涙で滲んでいたが、その中には確かな安堵があった。
健人は、目の前の美咲の顔をじっと見つめた。
すると、あのピンクの光の中で感じた「安心」がふたたび胸の奥に蘇る。
自分がここに戻ってきたのは、美咲が必死に呼びかけ、肩を揺さぶり続けてくれたからなのだと。
まだ身体は重く、頭は霞がかっている。
けれど、その事実だけははっきりと理解できた。
「……美咲……ありがとう」
かすかな声でそう告げた瞬間、美咲は堪えきれずに健人の胸に顔を埋め、泣き出した。
和室には彼女のすすり泣きと、夜の静けさが溶け合い、静謐な時間が流れていった。