(28)
美咲が安らかな寝息を立て始めてから、健人はしばらくの間その寝顔を見守っていた。隣に座っている綾乃もまた、娘の頬にかかった髪をそっと直しながら、母親らしい優しいまなざしを注ぎ続けていた。
やがて、綾乃が小さく息をつき、健人に向かって囁く。
「健人くん……ありがとう。私は美咲の傍で休むから、あなたはリビングのソファを使ってちょうだい」
「……分かりました」
健人は深く頷き、音を立てないように静かに立ち上がる。布団にくるまれた美咲は、まだ小さく寝息を立てていて、眉間の緊張もすっかり消えていた。その寝顔にもう一度視線を落とすと、健人はほっと胸をなでおろし、襖を閉めた。
階段を降り、一階のリビングに足を運ぶ。暗がりの中でソファが静かに佇んでいる。健人は上着を脱いで背もたれに掛け、横になった。
天井を見上げながら、先ほどまでの出来事が頭の中で何度も反芻される。
――俺の視線には……何があるんだろう。
思えば、最初に美咲が消えかけた時も、そして綾乃が青い燐光に包まれた時も、ただ必死に「戻って来てくれ」と願い、目を逸らさずに見つめ続けた。それだけで、二人は再びこの世界に立ち戻った。
普通の人間には、そんな力があるはずがない。けれど、美咲も綾乃も確かに「健人の視線」に反応していた。
美咲は……。
あの時、俺を見返して「安心する」って言ってくれた。周囲の人の視線がチリチリと痛いと感じる中で、俺の視線だけは温かく、落ち着けるものだったらしい。
対して、綾乃は……。
彼女は激しいまでの感情に飲み込まれていた。安らぎではなく、胸の奥から込み上げる強い渇望。まるでずっと欲しかった何かを、俺の視線が満たしてしまったかのように――。
「……二人とも、違うものを感じてる」
健人は呟き、腕を額の上に置いた。
視線を通じて伝わるものは、相手が求めているものなのかもしれない。普段の生活で埋められなかった心の欠片を、俺の視線が呼び起こし、与えてしまう……。
美咲には「温もり」。
綾乃には「激情」。
ならば、もし別の人が同じように俺の視線を受けたら……また違う反応を示すのだろうか。考えれば考えるほど答えは見えない。
「……そんな力、俺にはいらない」
思わず口からこぼれ落ちた言葉は、弱々しい響きを持っていた。自分の視線一つで、他人の心を揺さぶり、時に理性をも崩してしまう。そんなものは畏ろしさしかなかった。
けれど――。
「でも……あの二人が、俺のせいで消えなかったなら」
その時だけは、この力を肯定したいと思ってしまう。
もし視線の力がなかったら、美咲も綾乃もこの世界から消え、俺一人だけが取り残されていたのかもしれないのだ。
健人は大きく息を吐き、体を横向きにして目を閉じた。
しかし、胸の奥に渦巻く考えは簡単に収まるものではない。まぶたの裏に浮かぶのは、美咲の安らかな寝顔と、そして綾乃の紅潮した横顔。二人の姿が交互に現れては消え、健人の思考を掻き乱していく。
――俺は、どうすればいい。
その問いに答える声はどこからも聞こえてこない。夜の静けさがリビングを包み込み、時計の秒針だけが規則正しい音を刻んでいた。
しばらくして、健人はようやくまどろみかけていた。思索に疲れた脳が、夢の淵へと落ちかけていたその時だった。
――コトッ。
小さな音が耳を打った。
「……え?」
健人の意識は一瞬で覚醒した。
今のは夢の中の幻聴ではない。確かに、何かが動く音がした。
彼はそっと上体を起こし、呼吸を殺して耳を澄ます。リビングの隣は和室。襖一枚隔てたその向こうから、かすかな物音が響いてきたのだ。
畳に何かが落ちるような、あるいは足音を忍ばせて動くような……微かな気配。
健人の心臓は一気に鼓動を速めた。
「……誰か、いる……?」
呟いた声は自分でも驚くほど小さく、震えていた。
この世界には、美咲と綾乃、そして自分の三人しかいないはずだ。ならば、隣の和室にいるのは一体――。
健人はソファから身を起こし、息を整えながら、静かに和室の襖へと視線を向けた。
闇に沈むその襖は、ただ黙ってそこに立っている。けれど、その向こうに確かに何かの気配が潜んでいる。
健人の背筋に冷たい汗が伝い落ち、手のひらがじっとりと湿った。
――あの向こうにいるのは、誰なんだ。
息を呑み、健人は襖を凝視した。