日曜日, 6月 21, 2026

囁きと温もり

 (13)

売店の蛍光灯は落ちていたが、窓から差し込む柔らかな光が二人の間を照らしていた。

 美咲は健人のすぐ目の前に立ち、そっと彼の瞳を覗き込んだ。


「……ねえ、健人くん」

 小さな囁きが、胸の奥にじんと響く。

「こうやって、見つめ合ってるとね……身体がじんわり温かくなってくるの」


 美咲の頬はほんのり赤く染まり、まるで夢に酔っているかのように潤んだ瞳で健人を見つめ返す。

「安心できるし……心地よくて……。このままずっと、こうしていたい」


 その言葉と表情に、健人は息を飲んだ。

 目の前の美咲は、これまでに見たことのないほど恍惚とした様子だった。

 彼女の吐息すら、ほんのり熱を帯びて頬に触れるように感じられる。


(……なんだ、この感じは)


 健人の胸に、説明のつかない違和感が生まれる。

 確かに、以前から美咲は自分の視線が温かいと言っていた。

 だが今の彼女は、温かさを通り越して何かに酔わされているように見える。


(まさか……俺の視線のせい、なのか?)


 思い切って、健人はゆっくりと視線を逸らした。

 ほんの少し、窓の方へと目を向ける。


 すると、美咲の身体から力が抜けたように、ふらりと揺れた。

「……っ」

 細い肩が小さく震え、彼女の口から短い吐息が漏れる。


 慌てて視線を戻すと、美咲ははっと我に返ったように瞬きをした。

 次の瞬間、顔を真っ赤にして視線を落とす。


「……ごめん。今の、忘れて。私……ちょっと変だったよね」


 消え入りそうな声で呟き、両手で頬を押さえながら俯いてしまう。

 耳の先まで赤くなり、恥ずかしさに耐えている様子が伝わってきた。


 健人は、ただ唖然として彼女を見つめていた。


(……やっぱりだ。美咲の反応は、俺の視線の近さや強さで変わってる……)


 今まで、美咲の「温かさ」の感覚を半信半疑で聞いていた。

 だが今、目の前で彼女の身体が視線ひとつで変わる様子を目にしてしまった。


 頬が赤く染まり、手の中で熱を帯びるように揺れる姿。

 それは単なる思い込みではなく、何か確かな力が働いている証のように思えた。


 健人は唇をかすかに噛みしめる。


(……もし俺の視線が美咲に影響を与えているなら……。その力を使って、この変な世界を元に戻せないだろうか?)


 考えが胸の奥で膨らみ始める。

 もちろん確信はない。ただの推測だ。

 けれど、視線を通して美咲に「温かさ」を与えられるのなら、その延長線上に、二人を取り巻く異常な状況を変える糸口が隠されているかもしれない。


 美咲は未だに俯いたまま、震える声で言った。

「……健人くんのこと、変な風に思わないで。私、本当に……視線を感じると安心するだけなの。だから、さっきのは……」


 健人は、静かに首を振った。

「いや……美咲のせいじゃない」


 その言葉に、美咲は驚いたように顔を上げる。

 その瞳は潤んだまま、戸惑いと安堵が入り混じっていた。


 健人は少しだけ迷いながらも、真剣に言葉を続けた。

「……多分、俺の視線が関係してるんだと思う。近づきすぎたり、強く見すぎたりすると、美咲に影響が出るんじゃないか」


 美咲は目を瞬き、やがて小さく頷いた。

「……うん。そうかもしれない」


 二人の間に再び静寂が落ちる。

 だが今度は、以前のような不安を孕んだ沈黙ではなかった。

 互いに同じ謎を共有し、同じ方向を見つめ始めた、そんな空気があった。


 健人は心の中で固く決意する。


(この力……俺の視線が、鍵なんだ。美咲を守るだけじゃなく、この世界を変えるために。どうすればいいか、まだ分からないけど……必ず答えを見つける)


 視線の強さひとつで、彼女の心と身体が変わる。

 その不思議な現象の先に、二人が元いた世界への道があると信じて。


 健人は、そっと美咲の方へ目を向けた。

 美咲は照れくさそうに俯いていたが、その唇がわずかにほころび、彼の視線を受け止めるように顔を上げる。


 二人の瞳が再び重なった瞬間、胸の奥で小さな火が灯るように、確かな温もりが広がっていった。


日曜日, 6月 14, 2026

視線と囁き

(12)

 売店の静けさに包まれながら、二人はしばし無言のまま座っていた。

 沈黙は長く続かなかった。


 美咲がゆっくりと立ち上がり、健人の方へ歩み寄る。

 そして、彼のすぐ前に立ち、まっすぐに見つめてきた。


「健人くん……」

 柔らかな声に、健人は思わず息を飲んだ。

「……前にも言ったよね。私のこと、見てほしいって」


 その言葉は、穏やかでありながら揺るぎない響きを持っていた。


 健人の胸がどきりと高鳴る。

 確かに、美咲は以前から「見てほしい」と言っていた。だが今、こうして真正面から言われると、どう見ればいいのか分からなくなってしまう。


「……でも、美咲は……俺の視線がどこに当たってるか、分かるんだろ?」

「うん。分かるよ」

「だったら……下手に見たら、変に思われるんじゃ……」


 戸惑いながら言葉を濁す健人に、美咲はふっと微笑んだ。

 その笑みは、どこか子どものような無邪気さと、大人びた確信を同時に宿していた。


「だからこそ、確かめてみたいの。……健人くんの視線が、他の場所に当たっても温かいのか」


 そう言って、美咲はゆっくりと目を閉じた。

 長いまつげが頬に影を落とし、まるで祈るように静かな呼吸を整えている。


「……ほら、やってみて」


 健人は心臓が跳ねるのを感じた。

 視線を向けるだけなのに、なぜこんなに緊張するのか。

 額に汗がにじむのを拭いながら、意を決して美咲の首筋へ視線を移した。


「……どうだ?」


 わずかな沈黙のあと、美咲の唇がやわらかく開いた。

「うん……首がぽかぽかする。すごく優しい温かさ」


 その表情は、安心に包まれた子どものように安らいでいた。

 健人は次に肩へ、さらに腕や手のひらへと視線を移す。


「……肩も、腕も……あったかい」

「……手のひらは?」

「ん……あったかい。健人くんの手に触れられてるみたい」


 美咲は目を閉じたまま、嬉しそうに微笑んだ。

 その無防備な姿に、健人の胸は高鳴り、喉がからからに渇いた。


 やがて、美咲は小さな声で続けた。

「……ねえ、健人くん」

「ん?」

「……これまで、痛い視線ばかり感じてきたところ……そこも、見てみてほしいの」


 その声は小さく、震えていた。

 美咲は顔を赤らめながら、うつむき気味に付け加える。

「……胸とか……お腹の真ん中とか。ずっといやらしい視線を浴びて、気持ち悪かった場所」


 健人は言葉を失った。

 顔が一気に熱を帯び、耳まで真っ赤になるのが分かる。


「そ、それは……」

 どうしても直視できず、思わず目を逸らしかける。


 だが、美咲は勇気を振り絞るように囁いた。

「……健人くんなら、違うって思うから。……お願い」


 その声は必死だった。

 健人は深呼吸し、赤くなった顔を隠すように視線を少し落とす。

 胸の奥が苦しくなるほど緊張しながら、盗み見るように美咲の身体の中心へと視線を投げかけた。


 しばしの沈黙。

 次の瞬間、美咲はふうっと息を吐き、ほっとしたように笑った。


「……やっぱり。痛くない。優しくて……あったかい」


 その安堵の表情に、健人の胸がじんわりと熱くなった。

 同時に、視線を向けるだけで彼女を安心させられることが、不思議でならなかった。


 美咲はゆっくりと目を開け、健人を見つめる。

 頬をほんのり赤らめながら、そっと健人の両手を取った。


 彼女の手は、驚くほど温かかった。

 そのまま両手をしっかり握りしめ、健人の目の前に立つ。


「……健人くん。これからも、ずっと……私のことを見ていてね」


 囁きは甘く、耳に溶け込むように響いた。


 至近距離で見つめ合い、握られた手の温もりが直に伝わってくる。

 健人の鼓動は早鐘のように鳴り止まず、顔は真っ赤になっていた。


 言葉は出てこなかった。

 ただ、美咲の瞳の中に自分が映っていることだけが、確かな真実として胸を震わせた。


日曜日, 6月 07, 2026

不安と視線

 (11)

健人はパンの残りを机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。

 売店の中をもう一度見回す。


 ガラス張りのショーケースには、まだ誰かが買うのを待っているかのようにパンが整列している。

 壁には校内でよく見かける、縦に長い姿見の鏡がかけられていた。

 けれど、そこに映っているのは自分と美咲だけ。他に影も人影もない。


 息を潜めるようにして周囲を探ったが、やはり何も見つからなかった。


 その間、美咲はじっと背中を押さえるようにして座っていた。やがて小さく息を吐き、顔を上げる。

「……今、消えた」

「消えた?」

「うん……背中の温かさ。さっきまでずっとあったのに、健人くんが立ち上がって周りを見始めたら、すっと消えちゃった」


 健人は眉をひそめた。

「じゃあ……やっぱり何かの視線だったのか? それとも――」

「分からない。でも、あれは……痛い視線じゃなかった」


 健人は思わず息を呑んだ。

「じゃあ、俺が見た時と同じ……?」


 美咲は少し戸惑うように頷いた。

「そう。あの時みたいに、じんわり温かくて、安心するような感じだった」

「でも、俺が見てたのは美咲の顔や横顔だぞ。背中じゃない」


 健人の言葉に、美咲はわずかに目を伏せる。唇をかみ、ためらうように言葉を選んだ。

「……あのね、私……視線が当たる場所、分かるの」


「場所が……分かる?」

「うん。たとえば、耳とか頬とかに当たってるって、はっきり分かる。……他の人の視線も全部」


 その声は小さく、どこか恥ずかしさを含んでいた。

 健人は思わず身を乗り出す。

「じゃあ……さっきの背中に感じた温かさも?」

「そう……でも、誰が見てるのかは分からなかった。だから余計に怖かったの」


 美咲は自分の肩を抱くようにして言った。

 健人はしばし沈黙した後、恐る恐る聞いてみた。

「……なあ、美咲。じゃあ、他の人の視線って……全部分かるのか?」


 美咲は顔を赤らめ、俯いた。

「……分かる。だから……イヤなんだ。他の人の視線って、胸とか……お尻とか……そういうところに向けられるのが多いから。見られるたびにそこがじりじり熱くて、気持ち悪くて……一日中、体のあちこちがチリチリするの」


 その告白は、健人にとって衝撃だった。

 彼女が普段どれだけ耐えてきたのかを思うと、胸が痛んだ。


 だが次の瞬間、美咲はちらりと健人を見て、かすかに笑った。

「でもね……健人くんの視線は違う。身体じゃなくて……顔とか、耳とかに当たるから。だから、あの時みたいに温かく感じるんだよ」


 健人の鼓動が跳ね上がった。

 思わず視線を逸らしそうになったが、美咲が真剣に見つめ返してくるので、逃げられなかった。


「……俺の視線、そんなに分かるのか」

「うん……全部」


 美咲は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。

「だから……昨日も、盗み見してるの、気づいてた」


 その瞬間、健人の耳まで赤くなった。

 盗み見していたことを自覚していたが、実際に本人に指摘されると恥ずかしさで胸が詰まる。


「そ、それは……」

 言葉を探す健人を見て、美咲はくすりと笑った。

「でも……イヤじゃなかったよ。むしろ……守られてるみたいで安心した」


 その笑顔に、健人は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 だが同時に、背中に感じた温かさの正体が分からない不安も残る。


 もし本当に自分以外の視線なら――それは一体、誰のものなのか。


 二人は言葉を失い、売店の中に静寂が戻った。

 パンの甘い香りはまだ漂っているのに、空気は妙に冷たく、重く感じられた。


 健人の心臓は、ドキドキと早鐘を打ちながらも、胸の奥で小さなざわめきを拭えずにいた。

日曜日, 5月 31, 2026

探索と不安

 (10)

校内を歩き回っても、やはり誰の気配もなかった。廊下には昨日までの授業の残り香が漂っているのに、黒板には消されていないチョークの跡が残っているのに、その場にいたはずの人間が忽然と消えてしまったかのようだ。


「とりあえず、何か食べるものがないと」

 健人がそう言って、美咲を促す。二人は一階の昇降口近くにある売店へ向かった。


 がらり、と引き戸を開けると、中は薄暗く、だが整然としていた。棚にはまだ商品が並んでおり、紙パックのジュースやペットボトルの水、パンやスナック菓子が少し残っている。


「……残ってる」

 美咲が小さく息を呑んだ。

 健人は慎重に棚から二つのパンと、ペットボトルの水を手に取る。


「とりあえず、これで朝食にしよう。後でまた考えればいい」

「うん……」


 二人は売店横の休憩用ベンチに腰掛け、パンを分け合って食べ始めた。


 ふわりと甘い香りが口いっぱいに広がり、思わず健人は肩の力を抜いた。

「……なんか、普通にうまいな」

 そう言った健人の言葉に、美咲は思わず吹き出す。


「ふふっ……当たり前じゃない。昨日まで食べてたのと同じだよ」

「いや、状況が状況だからさ。味わう余裕もなくなるかと思ったけど……」

「意外と人間って、食べ物で落ち着くんだね」


 二人は顔を見合わせ、声を殺すように笑った。

 ほんの少し前まで張りつめていた緊張が、ゆるりと解けていく。


 パンを半分食べ終えた頃、健人はふと口を開いた。

「なあ、美咲……これ、昨日の夜のあの瞬間から人が消えたんじゃないかって思うんだ」


「……白い閃光に包まれた時?」

「そう。売店だって、昨日の昼休みまで普通に使われてたように見えるし……賞味期限も切れてない。机も椅子も、全部そのまま。まるで俺たちだけ置いていかれたみたいに」


 美咲は少し考え込むように視線を落とした。

「……じゃあ、やっぱり健人くんの視線が……鍵?」


 その言葉に、健人は一瞬言葉を失った。

 思い返せば、彼女が「視線のおかげで痛みが消える」と言ったことから全てが始まった。

 そして昨日の赤い光も、視線を必死に送り続けた結果だった。


「……分からないけど。でも、そう考えると辻褄は合う気がする」

 健人が答えると、美咲は小さく頷いた。


 その時だった。

 健人がいつものように美咲をそっと盗み見ると、美咲がわずかに肩を揺らした。


「……っ」

「どうした?」

「……今、また……温かみを感じた」

「え? 俺、見てただけだけど」

「うん……でも、さっきと違うの。……耳とか頬じゃなくて……背中に」


 美咲は自分でも信じられない、といった顔で言った。

 その視線には少し怯えが混じっている。


 健人は眉を寄せ、周囲をぐるりと見渡した。

 だが、売店の中には二人しかいない。

 外の廊下も静まり返っており、風の音すらしない。


「……気のせいじゃないのか?」

「分からない。でも……確かに感じたの。背中の真ん中が、じんわり温かくなって……」


 美咲の声は震えていた。

 健人もまた、得体の知れない不安を覚えた。

 もし健人の視線が鍵だとしたら――では、背中に感じた温かさは誰のものなのか。


 二人は顔を見合わせ、言葉を失った。

 さっきまでの冗談めいた会話は跡形もなく消え、売店の空気が再び重苦しく沈んでいく。


 パンの甘さも、口の中で砂のように感じられる。

 冷たい現実が、二人を再び包み込もうとしていた。

日曜日, 5月 24, 2026

静寂と探索

 (9)

翌朝――。

 健人は重たいまぶたを持ち上げた。


 視界に広がったのは、見慣れた教室の天井。窓からは柔らかな朝の光が差し込み、淡い影が机と椅子を長く伸ばしている。夜の冷たさは去り、ほのかに暖かい空気が漂っていた。


 身体を起こすと、隣には美咲が静かに眠っている。まだ寝息が浅く、眉間にはわずかな皺が寄っていたが、彼女の頬には昨夜とは違う穏やかさが戻っていた。

 その姿を見て、健人は胸を撫で下ろす。少なくとも、自分はひとりではない――そう思うだけで、不安の波が少しだけ退いていく。


 立ち上がって窓辺に寄り、外を見下ろした。

 校舎の向こうに広がる住宅街は、見慣れたものだった。赤い屋根の家、並んだ電柱、遠くの大通りへ続く道路。昨日まで通っていた日常の風景そのもの。


 だが――やはり人の気配はなかった。

 車が動くこともなく、犬の鳴き声も聞こえない。旗めく洗濯物もなく、窓辺に立つ人影もない。まるで誰もいない模型の町を見ているようだった。


(……どうやったら元に戻れるんだ?)


 健人は腕を組み、必死に考える。

 昨日の「光」と「視線」。あの時は、奇跡のように美咲を呼び戻すことができた。だがそれがどういう仕組みなのか、自分に何ができるのか、見当もつかない。


 ただ一つ分かるのは、このまま待っているだけでは状況は変わらないだろうということだ。


 その時、小さな声が背後からした。

「……ん……」


 振り返ると、美咲が毛布の中でもぞもぞと身体を動かし、やがて瞼を開けた。

 ぼんやりとした視線が健人を捉え、少しだけ微笑む。


「……健人くん……良かった……まだ隣にいてくれた……」


 かすれた声に、健人の胸が温かくなる。

「当たり前だろ。置いて行ったりしないよ」


 そう答えると、美咲は安心したように目を細めた。けれど、すぐに表情が引き締まり、真剣な声で言った。


「……私、やっぱり一度家に戻りたい」


 健人は目を瞬かせた。

「家に?」

「うん。……もしかしたら、お母さんが家の中にいるかもしれない。あるいは……誰か、知ってる人が」


 その言葉は切実だった。

 美咲にとって、母親は最後の拠り所なのだろう。だが健人はすぐに首を振った。


「外は危ない。俺たち以外に誰もいないかもしれないんだ。昨日だって、校舎の外は真っ暗で、街灯一つ点いてなかった。昼間だからって安心はできない」


 美咲は唇を噛んだ。

「……でも、どうしても確かめたいの。もし本当に誰もいないなら……せめて、確かめなきゃ前に進めないから」


 その目は真剣で、迷いがなかった。

 それを見て健人は少し考えた。が、止めても、彼女の決意は揺るがないだろう。


 しばし沈黙ののち、大きく息を吐いた。

「……分かった。一緒に行こう」


 美咲はぱっと顔を上げた。

「本当に?」

「ああ。でも、何も持たずに行くのは危険だ。どんな状況か分からないんだから。……まずは校内を調べて、使えそうなものを探そう」


 美咲は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。

「うん……そうだね」


 健人はほっとする。彼女を守りたい一心で口にした言葉だったが、それが受け入れられたことに、わずかな安堵を覚えた。


 二人は毛布を畳み、机の上に置くと、教室を出て廊下に出た。

 朝の光に照らされた校舎は、いつもと変わらぬ静けさを保っている。だが、そこに満ちているのは日常の喧騒ではなく、不自然なまでの沈黙だった。


 廊下を進みながら、美咲は健人の袖を軽く握った。

「……ごめんね、わがまま言って」

「いいよ。……俺も、何か行動しないと落ち着かないし」


 健人はできるだけ平静を装った声で答える。だが心臓の鼓動は速く、冷たい汗が背中を伝っていた。


(……この先、何が待っているんだろう)


 そう思いながらも、健人は歩みを止めなかった。

 まずは校内を探し、次に街へ。

 二人の新たな探索が、いま始まろうとしていた。

日曜日, 5月 17, 2026

閃光と静寂

 (8)

意識が戻ったのは、どれほどの時間が経った後だったのだろう。

 健人はゆっくりとまぶたを持ち上げた。目に飛び込んできたのは、見慣れた教室の天井。白い蛍光灯は消えていて、窓の外から流れ込む月明かりだけが、淡い光を室内に落としていた。


 上体を起こそうとした瞬間、ずしりとした温もりが自分の胸にのしかかっていることに気づいた。見下ろすと、美咲が両腕を回し、しっかりと抱きついたまま眠っていた。


 彼女の顔は穏やかで、長いまつ毛が月光を受けて淡く輝いている。だがその頬には、涙の跡が乾かぬまま残っていた。


「……美咲」


 健人が囁くように呼びかけると、美咲の肩がぴくりと震えた。ゆっくりとまぶたを開け、潤んだ瞳が健人を映す。


 次の瞬間、彼女は強く息を吸い込み、声を震わせながら言った。

「……健人くん……本当に……戻ってこられたんだね……」


 そう言った途端、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 美咲は顔を胸に押し付け、声を押し殺すようにして泣き始める。


 健人は戸惑った。どう慰めればいいのか分からない。けれど、ただ背中に手を回し、そっと撫でることしかできなかった。


「大丈夫だ……もう、ここにいる」


 自分に言い聞かせるような声。それでも美咲は、その言葉に少し安堵したようで、嗚咽を繰り返しながらも次第に呼吸を整えていった。


 やがて泣き疲れたのか、美咲は健人の胸に顔を預けたまま、小さな声で言った。

「……ありがとう。健人くんが呼んでくれたから……ちゃんと戻れたんだと思う」


 その言葉に胸が熱くなる。だが同時に、健人はふと我に返った。

 周囲の空気が妙に静かすぎるのだ。


 そっと美咲を支えながら窓の外に目をやる。

 そこには、冴え渡る夜空が広がっていた。雲ひとつない空に、満天の星々が瞬き、月は白銀の光を惜しげもなく降り注いでいる。


 美しい光景。だが、すぐに違和感が健人を襲った。


 ――暗い。


 街の明かりが一つもない。

 校舎の外に続く住宅街の灯りも、遠くに見えるはずの街路灯も、どこにも存在しない。


 まるで世界が星と月だけに支配され、他のすべてが取り払われてしまったような、不自然な闇が広がっていた。


「……そんな……」

 健人は思わず息を呑んだ。


 異変に気づいた美咲が、不安そうに彼の腕を握った。

「健人くん……どうしたの?」


 嘘をつくこともできた。けれど、彼女を騙しても仕方がない。

 できるだけ落ち着いた声を装いながら、健人は窓の外を指差した。


「……見てごらん。星は見える。でも、それ以外の明かりがどこにもないんだ」


 美咲の表情が凍りついた。

 窓辺に立ち、彼女も外をのぞく。しばらく黙ったまま星空を見つめた後、唇を震わせた。


「……じゃあ……私たち……二人だけ……?」


 その声は恐怖に揺れていた。

 健人は言葉を返せなかった。彼自身も愕然としていたのだ。

 昼間のように賑やかな教室に戻れたと思った。だが、待っていたのは別の孤独――人の気配が完全に消えた世界。


 美咲は目を伏せ、唇を噛み、必死に涙を堪えていた。彼女を再び不安にさせまいと、健人は無理やり笑みを作った。


「……でも、今は外に出るのはやめよう。真っ暗だし、何があるか分からない。危険だ」


 美咲は小さく頷いた。その肩はかすかに震えていたが、健人の言葉にすがるような表情を見せた。


 健人は教室の隅を探り、非常用の物資を収めた箱を見つけた。中にはいくつかの毛布がしまわれていた。

 その一枚を取り出し、窓際に腰を下ろすと、美咲をそっと隣に座らせた。


 月明かりの下、二人は一枚の毛布を肩から掛け合う。距離は近く、互いの体温がじんわりと伝わってくる。


 美咲は毛布を握りしめたまま、小さな声で呟いた。

「……本当に、これからどうなるんだろうね」


 健人は答えられなかった。

 だが、美咲の震える手をそっと握り返し、かすかな強さを伝える。


 それでも、不安は胸を離れない。

 星だけが輝き、街は暗闇に沈み、人の声はどこにもない。

 今夜を越えた先に、果たしてどんな朝が訪れるのか。いや、朝というものが再びやって来るのかすら分からない。


 美咲の頭が健人の肩に預けられ、彼女の呼吸が次第に落ち着いていく。眠りに落ちていく彼女を見守りながら、健人は暗闇に沈む世界を見つめ続けた。


(……俺が、守らなきゃ……)


 そう思った瞬間も、心の奥に潜む不安は消えなかった。

 この先、二人に待ち受けているのは救いか、それともさらなる孤独か――。


 答えの見えない問いだけが、夜の静けさとともに健人の胸を締めつけ続けた。

日曜日, 5月 10, 2026

燐光と閃光

 (7)

 「……美咲!」


 健人の声は震えていた。淡い光に包まれた美咲の輪郭が、刻一刻と薄れていく。透き通るように霞んでいく頬、今にも消え入りそうな瞳。その姿は彼の心を容赦なく引き裂いた。


(考えろ……何かできることがあるはずだ。俺にしかできないことが……!)


 脳裏に浮かんだのは、美咲の言葉だった。

――健人くんの視線を感じている間だけ、痛みが消えるの。

――あなたの視線は、熱さじゃなくて温かいの。


 彼女をこちらに呼び戻せる唯一の手段。それはきっと、自分の視線だ。

 根拠はなかった。ただ、美咲が自分にそう告げた事実だけが頼りだった。


「……やるしかない!」


 健人は決意すると、一歩大きく踏み出した。

 椅子に座る自分の机を押しのけ、美咲の目の前へ迫る。その姿は光に揺れ、触れようとしても透き通ってしまう。それでも――健人は構わなかった。


 彼女の顔に自分の鼻先が触れるほど近づき、両手をそっと伸ばす。

 まだ触れられない。だが幻を掴むようにして、美咲の頬を包み込む形を作った。


「美咲……! こっちに戻ってこい! 俺がちゃんと見てる! だから、俺の視線を感じて――!」


 健人は必死に呼びかけながら、美咲の瞳を覗き込んだ。

 その距離は、吐息すら触れ合いそうなほど近い。逃げ場のない視線。真っ直ぐな思いを込めた光が、彼女の奥底へと届くことを祈りながら。


 美咲の目が見開かれる。驚きと戸惑いの中で、それでも彼の視線を受け止める。

 次の瞬間、彼女の頬がかすかに紅潮し、震える声で言葉を漏らした。


「……健人くん……あ、あつい……身体が……火照って……!」


 その言葉とともに、彼女の体を包んでいた淡い光が赤く染まり始めた。

 ゆらめく炎のような赤。やがてそれは二人を中心に渦を巻き、炎の衣のように絡みついた。


「……これは……!」

 健人も驚愕する。だが迷う暇はなかった。

 彼女の姿が完全に透けきってしまう前に、光が力を取り戻していくのを感じたからだ。


「まだだ……! まだ戻れる!」


 健人は両手で彼女の頬を強く包み込み、さらに視線を深く注ぎ込んだ。

 その瞬間――手にかすかな温もりが蘇ってきた。最初は空気のゆらめきのように曖昧で、次に指先が熱を感じ、やがて確かな感触へと変わっていく。


「……触れてる……!」


 頬の柔らかさ。震える肌の感触。彼女の存在が少しずつ、この世界に戻ってきている。

 健人の胸に希望が灯った。


「美咲! 聞こえるか! あと少しだ、もう少しで戻れる! だから頑張れ!」


 叫ぶと同時に、赤い炎が激しく弾けた。教室中を揺るがすほどの閃光となり、二人の影を壁に焼き付ける。

 轟音はない。ただ爆ぜる光と熱だけが、世界を塗り替えていった。


 健人は必死に声を張り上げ続けた。

「こっちに来い、美咲! 俺がちゃんといるから! 俺が見てるから!」


 すると、美咲の瞳に力が宿った。薄れていた輪郭が徐々に濃くなり、透き通っていた体が実体を取り戻し始める。


「……健人くん……! 触れてる……! 戻れる……戻れるよ……!」


 美咲の声に涙が混じった。

 その瞬間、赤い炎は一気に膨れ上がり、まるで爆発するかのように閃光を放った。


 健人の両手には、確かな感触があった。

 美咲の頬。熱を帯びた柔らかさが、指の間に広がっている。


「……っ!」

 感触のあまり、健人の胸が震えた。確かに彼女がいる。もう幻なんかじゃない。


 だが次の瞬間。

 赤い光は限界まで強まり、そして――真っ白な閃光に変わった。


「うっ……!」

 視界が焼かれるように真っ白になる。教室も、机も、窓も、すべてが光に飲み込まれた。


 目を閉じても意味はなかった。白はまぶしさを越えて、意識そのものを浸食してくる。

 その中で、健人はさらに別の感触を得た。


 背中に回された腕。

 力強く、自分を引き寄せる温もり。美咲の腕が、自分を抱きしめている。


「……美咲……!」


 声を上げようとしたが、白い光が喉を塞いだように声が出なかった。

 ただ、彼女の腕の力が確かに存在している。しがみつくように、離すまいとする強さがそこにあった。


 健人もまた、両手の力を強めた。

 頬を包む手が、彼女の熱を確かに感じていたから。


 二人は白の中でしっかりと繋がっていた。

 だが、その意識は限界に達し、徐々に暗闇に沈んでいく。


「……離さない……」

 最後に誰の声だったのかも分からない。

 強い光と、強い抱擁。そのすべてを胸に刻んだまま――健人と美咲は、意識を失っていった。