(6)
背後から聞こえた声に、健人は凍りついた。
夕暮れに沈む教室。赤く染まった机と椅子。窓の外では鳥の声すら途絶えて、静寂だけが支配している。
それなのに――確かに、自分の名を呼んだ声があった。
意を決して振り返ると、そこには淡い燐光に包まれた美咲の姿が立っていた。
「……美咲?」
信じられないという思いで、健人はその名を呼ぶ。
確かに彼女だ。昨日まで隣の席に座っていた少女。黒髪を肩に流し、制服のスカートを揺らして、いつものように微笑もうとする。だが、その輪郭は光に滲み、どこか儚い。
「健人くん……」
美咲は小さな声でそう言い、胸に手を当てた。
その顔には安堵の色と、そして強い不安が入り混じっていた。
「……何が起きてるんだ? 今日、美咲は学校に来なかった。みんな、君のことを知らないって……」
震える声で問いかけると、美咲は唇を噛んで、かすかに首を振った。
「私にも、よく分からないの。今朝、いつも通りに登校して、教室に入ったの。でも……健人くんがいなかった。先生も出席の時に健人君の名前を言わなかったし、みんなも、健人くんの名前すら出さないの」
健人は言葉を失った。
それは、まさしく自分が今日体験したことと逆の状況だった。
「……じゃあ、俺と同じなんだ」
「同じ?」
「そう。俺の世界では、美咲がいなかった。名前すら呼ばれなくて……友達に聞いたら“そんな人いないだろ”って。つまり、俺と美咲は……別々の世界にいるんだ」
パラレルワールド――健人は半ば無意識にそう口にした。
荒唐無稽に思える言葉だったが、今の状況を説明できる唯一のものだった。
美咲の目に涙が浮かんだ。
「……やっぱり、そうなんだね。私、ずっと怖かったの。今日は一日中、健人くんに見てもらえなかった。あの暖かさがないと……また、身体中がヒリヒリして……苦しくてたまらなかったの」
彼女は両腕を抱きしめるようにして、震えながら言葉を続ける。
「教室でも廊下でも、みんなの視線が刺さるみたいに痛くて……でも、健人くんの視線があると、その痛みが消えて、安心できた。だから……今日は……本当に、耐えられなかったの」
美咲の頬を涙が伝った。その姿を前にして、健人は胸が締め付けられる。
どうすればいいのか分からない。ただ一つ確かなのは、自分の視線が彼女を救っていたということ。
「……でも、どうすれば……」
健人も言葉を濁した。彼女を救いたい。だが、世界そのものが自分たちを隔ててしまっている。視線すら届かないのなら、彼にできることなどあるのだろうか。
その時――。
美咲の輪郭がふっと揺らいだ。淡い光が波紋のように広がり、彼女の姿が薄れていく。
「……え?」
健人は目を疑った。
確かにそこにいるはずの美咲が、透けて机の向こう側が見え始めていた。
美咲も気づいたのか、両手を前に伸ばした。
「いや……やだ。消えたくない。健人くん……!」
声が震え、涙が溢れる。
健人は慌てて机を乗り越え、手を伸ばした。だがその手は彼女に触れることなく、すり抜けた。まるでそこにあるのは光の幻影だけのように。
「待ってくれ! まだ消えるな!」
「助けて……健人くん……」
美咲の声は教室の静けさに響き渡り、健人の胸に突き刺さった。
彼女の姿はますます薄くなる。光の粒子が宙に舞い、夕日の赤と混ざり合って消えかけていく。
健人の頭の中には焦りと恐怖が渦巻いた。
(どうすればいい……? このままじゃ、本当に美咲が……!)
必死に考えるが、答えは出ない。ただ目の前で彼女の存在が削がれていく現実が、残酷なまでに迫ってきていた。
「お願い……消えたくない……健人くんの視線がないと、もう……!」
その叫びは、苦しみと恐怖に満ちていた。
健人は喉の奥が焼けつくように熱くなり、叫んだ。
「美咲!」
だが彼女の姿は、光の中で揺らぎながら――さらに薄くなっていった。