(20)
美咲は、畳の上に横たわる母――綾乃の肩をそっと揺すった。
「……お母さん……ねえ、起きて……」
その声に応じるように、綾乃のまぶたがゆっくりと震え、やがて開かれた。
まどろみから引き戻されるような感覚の中で、視界に最初に飛び込んできたのは娘の顔。そして、その背後に立つ健人の姿だった。
綾乃の胸が不意に熱くなった。
健人の顔を見た瞬間、頬に熱が集まり、思わず視線を伏せる。
彼の瞳の奥には、どこかこちらを包み込むような温かさがあって、それが心臓を強く締めつけた。
「……あの……ありがとう……」
ようやくそれだけを口にしたものの、声はかすかに震えていた。
娘の前で取り繕おうとしたが、どうしても頬の赤みは隠せなかった。
――あの光の中で、自分は何を見たのだろう。
胸の奥に甦るのは、夢のような感覚。
柔らかなピンクの光に包まれ、心がほどけ、抗えない奔流に巻き込まれるように意識を手放した瞬間。
ただ「安心」や「穏やかさ」だけではなく、もっと奥深く、女としての芯に触れるような熱と震えが確かにあった。
だがそれを口にすることなどできない。娘がすぐ隣にいる今、この胸の火照りを悟られるわけにはいかなかった。
綾乃は黙したまま、震える指を畳に置いた。
けれども、その火照りは収まらず、むしろじわじわと身体の奥から広がり続けていた。
健人と美咲は顔を見合わせ、状況を確認しようとした。
「……とにかく、今は三人ともここにいる。お母さんも無事に戻ってこれた」
美咲の声には安堵が混じる。
しかしその次の言葉は、真剣な響きを帯びていた。
「でも、なんでこんなことになってるのか……やっぱり分からない。クラスの子も、街の人たちも、誰もいないし……」
健人は深く息をつき、少し言いづらそうに口を開いた。
「美咲……やっぱり、俺の“視線”が何か関係してるんじゃないかと思うんだ。最初に美咲が言っただろ、俺に見られてると温かくなるって」
その言葉に、美咲はうなずき、そして母へと顔を向ける。
「お母さんも……もしかして、健人くんの視線を受けたときに、何か感じなかった?」
綾乃の心臓が跳ね上がった。
視線だけで、あの熱が甦る。
娘に問われて、どう答えればいいのか分からない。否定したいのに、言葉が喉につかえて出てこなかった。
そんなときだった。
健人が、ためらいがちに綾乃へと視線を向けてきたのだ。
その瞬間――綾乃の世界は変わった。
胸の奥から、熱い泉がふつふつと湧きあがる。
血流が速まるように頬が熱くなり、呼吸が浅くなる。
ただ見られているだけなのに、内側の奥深くが熱を帯び、脈動が伝わってくるような錯覚。
――これは……。
綾乃は目を閉じた。
視線の感触は、皮膚に触れる以上のものだった。
娘が語っていた「チリチリとした痛み」とはまったく違う。
それは炎のようでありながら、同時に優しく心を解き放つものだった。
そして次第に、熱は一点に集まり、身体の奥底から熱情の奔流となって迸ってくる。
抑えきれず、震えが指先まで伝わる。
――どうして……こんな……。
彼の瞳と自分の心が、直接結びついてしまったような錯覚。
長い間、妻であり母である自分が忘れていた「女」としての部分が、あまりにも鮮烈に呼び覚まされてしまう。
「……はぁ……」
思わず洩れた吐息に、自分自身が驚いた。
目を開けると、健人の真剣な瞳がこちらを射抜いていた。
その視線に触れるだけで、さらに熱が込み上げ、綾乃は胸元を押さえる。
――いけない、落ち着かなきゃ。娘の前でこんな姿……。
だが、理性の声は熱にかき消されていく。
恍惚に近い昂ぶりが全身を駆け巡り、言葉にならない感情が込み上げてくる。
「お母さん……?」
不安げな美咲の声。
綾乃は必死に微笑みをつくり、首を横に振った。
「……大丈夫。ただ……ちょっと、熱いの」
そう言いながらも、心臓は激しく打ち鳴らされ、身体の芯は収まりのつかない火照りに支配されていた。
それは明らかに、健人の視線が引き起こしているものだった。
――どうして……この子の視線に、こんなにも……。
理性と感情がせめぎ合う中で、綾乃は再び伏し目がちになり、震える唇を噛みしめた。
しかしその奥で、胸の内に芽生えた感情は、もう止められるものではなかった。