日曜日, 9月 06, 2026

甘い香りと熱

(24)

 「……どうしても、言ってくれないの?」


 美咲の声は震えていた。

 母である綾乃を見つめ、その隣に立つ健人を睨むように見比べる。その目には、疑念と恐怖と、裏切られたような痛みが入り混じっていた。


「私、何も知らないままなんて嫌だよ。……健人、さっきの光の中で本当は何をしたの? お母さん……あなたも何か隠してるんでしょう?」


 綾乃は口を開こうとした。だが、喉の奥に言葉が詰まってしまい、声にならない。

 光に包まれていた時のあまりにも強烈な感覚が、まだ身体の奥に残っていたのだ。娘の前で「女として感じてしまった」とは、どうしても言えない。


「……っ」

 美咲の問いに耐えきれず、綾乃はただ目を伏せる。


 健人も同じだった。自分が見た光景、感じた感覚をそのまま口にすれば、誤解どころか決定的に関係を壊してしまう。必死で言葉を探したが、唇はかすかに震えるだけで、何も出てこなかった。


 美咲の目に涙が滲んでいく。

「……二人とも、何も言ってくれないんだね。だったら、もう信じられない」


 次の瞬間、美咲は勢いよく立ち上がり、畳を踏み鳴らして和室を飛び出した。襖が乱暴に閉じられる音が響き、二人だけが取り残された。


 健人は慌てて立ち上がる。

「待って、美咲!」


 追いかけようとしたその瞬間、背後から温かい感触が手首に絡みついた。


「……っ」

 驚いて振り返ると、綾乃がそこにいた。細い指がしっかりと健人の手を掴んでいる。


「綾乃さん……! 放してください。誤解を解かないと、あのままじゃ……!」


 必死に訴える健人の言葉は、綾乃の瞳に吸い込まれていった。

 視線が交わったその刹那、胸の奥で何かがほどけるように崩れていく。


 ――もう、抑えきれない。


 綾乃は、自分でも信じられないほど速く言葉を紡いでいた。

「……誤解じゃ、ないの」


「え……?」


 健人の瞳に映る自分。その真っ直ぐな光を受けた瞬間、身体の奥に残っていた熱が一気に燃え上がった。娘の前では必死に隠していた女としての感情が、すべてあふれ出してしまう。


「私……あなたに見られて……抑えられなくなったの」


 次の瞬間、綾乃は健人の胸に飛び込むように抱きついた。

 驚いて声を上げる間もなく、そのまま体重を預けられ、健人の身体は畳に押し倒されてしまう。


 「――!」

 背中に畳の柔らかさが広がる。けれど、その上に覆いかぶさってくる綾乃の体温と包み込むような柔らかい身体は、それを一瞬で打ち消すほどに熱かった。


 至近距離で見つめ合う二人。

 綾乃の瞳は理性を手放したように揺らめき、頬は火照り、唇は小さく震えている。


「お願い……もう嘘をつけないの。あなたの視線に包まれると……女として、どうしようもなくなるの」


 吐息が触れるほど近くで紡がれるその言葉に、健人は息を呑んだ。


 頭の中では「駄目だ、美咲が誤解しているのに」と警鐘が鳴り響く。けれど、胸に押し当てられた綾乃の柔らかい身体を通して伝わる火照るような熱と、涙ぐんだような潤んだ瞳が、その理性を削ぎ落としていく。


 自分の視線が与えてしまった影響――それを最も強く示しているのが、今の綾乃の姿だった。


 畳の上に二人の影が重なり、月明かりに揺れながら、静かに飲み込まれていく。

日曜日, 8月 30, 2026

沈黙lと甘い香り

(23)

重い空気の中で、美咲の問いに答えられずに黙り込んでいた健人は、心の中で自分を叱咤した。

(……このまま濁したら、きっと二人に余計な疑念を抱かせるだけだ)


 美咲の瞳は、まっすぐにこちらを見据えていた。その瞳を裏切るようなことは、どうしてもしたくなかった。

 健人はゆっくりと息を吸い、覚悟を決める。


「……あの時のこと、正直に話すよ」

 美咲が小さく身じろぎをした。綾乃も表情を引き締め、静かに耳を傾けている。


「美咲が消えそうになったとき……俺は、とにかく必死で見つめていたんだ。視線を逸らしたら、本当に消えてしまう気がして……だから、近くまで寄って、美咲の顔を両手で包んで、ずっと見続けてた」


 言葉にしながら、あの時の熱と光景が蘇ってくる。額に汗が浮かぶのを感じながら、健人は続けた。


「違いがあるとすれば……美咲は俺の視線を受けて安心できるって言ってくれて、それで――『これからも見てほしい』って、言ったんだ。だから俺は、その言葉に応えるように……ずっと、見ていた」


 語り終えた瞬間、美咲の頬がぱっと赤く染まった。

「ちょ、ちょっと健人……!」

 綾乃の前でそこまで明かされるとは思っていなかったのだろう。声が上ずり、焦ったように視線を逸らした。


 その様子を目にした綾乃は、思わず自分の胸に手を当てる。健人が自分にしたことを、急に意識してしまったのだ。

(……じゃあ、私が戻れたのも……)


 彼女の中で疑問と答えが交錯し、口が勝手に動いた。

「……じゃあ健人くんが私にしてくれたのも……私を見てくれたから、なのね?」


 はっとして口を押さえる綾乃。だが、言葉はすでに畳の上に落ちてしまっていた。


 美咲の目が大きく見開かれ、母と健人の顔を交互に見比べる。

「……え?」

 声が震えていた。

「ちょっと待って……それって……まさか、健人……お母さんに、なにか……いやらしいことしたんじゃないでしょうね?」


 その言葉は、雷のように健人の頭を直撃した。

「なっ……! そ、そんなこと……!」


 思わず否定しようとするが、言葉がうまく続かない。あのピンク色の光の中で感じた、綾乃の熱と甘い香り。それを思い出すたび、説明のしようがなく喉が詰まってしまうのだ。


 美咲の瞳には、困惑と不安、そしてほんの僅かな怒りが混じっている。

「どうなの健人! ……だって、お母さん、さっきから様子が変だし……」


 追い詰められた健人は、言葉を失い、ただ絶句するしかなかった。

 畳の上に落ちる三人の影が、月明かりに揺らめきながら、不安定に揺れていた。


日曜日, 8月 23, 2026

疑念と沈黙

(22)

和室に流れていた重苦しい沈黙を、最初に破ったのは健人だった。

 美咲と綾乃、二人の視線が自分に集まっているのを感じて、逃げてはいけないと覚悟を決めたのだ。


「……あのさ。俺、自分でもどう説明したらいいのか分からないんだけど」

 健人は一度深く息を吸い、言葉を選ぶようにして続けた。

「たぶん……俺の視線が、何かの力を持ってるんだと思う」


 その言葉に、美咲と綾乃は小さく目を見開いた。


「美咲が消えそうになったとき、必死に見つめたら、こっちに戻ってきた。綾乃さんも……同じだった」

 健人は、正面に座る綾乃に視線を向けた。

「どうしてなのかは分からない。けど、俺が見ていることで、二人をこの世界に繋ぎとめられた……そんな気がしてる」


 自分でも信じられない話をしているのは分かっていた。けれど、黙ったままでは、ますます不安が募るだけだ。


 健人の言葉を聞いて、綾乃は小さく唇を噛み、俯いた。やがて、何かを思い出すようにゆっくりと顔を上げる。


「……そうね。私の方も、確かにおかしかった」

 彼女の声はまだかすかに震えていたが、それでも率直に語ろうとする強さがあった。

「私は居間にいたの。いつものように台所の片づけをして、少し座って休もうとしたら……突然、青い光に包まれて意識が遠のいていった。あの時は、何が起きたのか全く分からなかった」


 綾乃は視線を宙に泳がせ、あの感覚を確かめるように言葉を継ぐ。

「気がついたときには……もう、部屋の輪郭がぼやけ始めていたわ。畳も、障子も、全部が淡く滲んで、崩れ落ちそうで。――その時、二人が来てくれたの。美咲の声と、健人くんの強い視線。……その温かさを感じたら、不思議とまた、ここに戻ることができた」


 そう告げる綾乃の横顔は、どこか恥じらいと安堵が入り混じっていた。

 美咲は、母の話を聞いて黙って頷く。


「……私も、似てるかも」

 美咲は自分の体験を思い返し、言葉を紡いだ。

「ある日学校に行ったら、なんだか世界が変だった。教室にみんながいるのに、どこか遠くの影みたいで、声も聞こえなかった。それで……放課後、誰もいなくなった教室で健人に会ったの」


 あの時の胸の高鳴りを思い出す。

「その時も、世界がぼやけ始めてた。……黒板も机も全部が滲んで、消えちゃいそうで怖かった。でも、健人が私を見てくれて……その視線で、ここに戻れたんだと思う」


 美咲は健人の方を見て、小さく微笑んだ。だがその微笑みの奥には、あの恐怖を思い出す影が潜んでいる。


 三人の話は、不思議な共通点を持っていた。

 突然現れる燐光、崩れ落ちそうな世界の輪郭、そして――健人の視線が引き戻す温かさ。


 だが、そこから先が分からない。

 どうして誰もいない世界に取り残されたのか。

 なぜ自分たち三人だけがこうして集まれたのか。


 「……けどさ」健人はぽつりと呟いた。

「結局、どうしてこんな世界になっちゃったのか……俺にも分からない」


 その言葉は正直な吐露だった。彼自身もずっと考え続けているが、答えは見つからない。

 静寂が再び訪れる。月明かりが障子を透かして淡く室内を照らし、三人の影を畳に落とした。


 沈黙を破ったのは美咲だった。

 健人をじっと見つめ、少し強い口調で問いかける。


「健人……私をこの世界に戻してくれた時、他に……何か、今までと違ったことはなかった?」


 その問いかけには切実さが込められていた。

 彼女はまだ、母を失うかもしれない不安を抱えている。

 そして、自分たちがなぜ「ここ」にいるのかを知るために――健人が隠していることがあるのではないか、と直感していた。


 健人は言葉を詰まらせた。

 思い返すのは、あの日の教室で、美咲の頬を両手で包み込み、鼻先が触れるほど近づいて必死に見つめた瞬間。

 そして、二人を包んだ赤い炎のような光。

 ……だが、そのことをどう伝えればいいのか。


 美咲は健人の沈黙を見て、余計に胸を締め付けられるような思いに囚われていた。


日曜日, 8月 16, 2026

火照りと疑念

 (21)

和室に横たわっていた綾乃が意識を取り戻してから、しばらくの間、三人の間には言葉にならない沈黙が漂っていた。

 月明かりに照らされる部屋は静かで、遠くから虫の声さえも届かない。まるで世界そのものが、彼ら三人を取り残してしまったかのようだった。


 綾乃は座り直し、頬に手を当てながら健人の顔を見た。だが、その瞳と視線が触れ合うたびに、胸の奥がざわめき、頬がさらに赤く染まっていく。

 普段なら娘の前で決して見せない、女としての動揺がそこにあった。


 ――いけない。落ち着かなきゃ。私は母親なのに……。


 そう心で何度も繰り返しても、先ほど健人に見つめられたときの熱は容易に消えてくれなかった。理性の奥で押し殺してきた「女」としての感覚が、突如として呼び覚まされてしまったのだ。


 美咲は、その母の表情を見て胸がざわついた。

 これまでずっと、自分を守ってくれる優しい母親の顔しか知らなかった。食卓の笑顔、夜にかけてくれる毛布の温もり、叱る時でさえ愛情を含んでいた声。

 けれど今、目の前にいる母は違う。

 健人の視線を受けた瞬間に見せた表情は――まるで女としての喜びに震えているかのようで、娘である自分の方が恥ずかしくなってしまうほどだった。


 「……お母さん、大丈夫?」

 美咲は恐る恐る声をかけた。


 綾乃は小さく息を整え、ぎこちない笑顔を浮かべた。

「ええ、大丈夫よ。ただ……少し、不思議な感覚が残っていて」


 その答えに、美咲は思わず健人を見た。

 やっぱり何かある――。母の様子を見れば、健人の視線が原因であることは明らかだ。

 けれど、母はそれをはっきりと言わない。だからこそ、美咲の胸の内にはもやもやした感情が膨らんでいった。


 「ねえ、健人くん……」

 美咲は意を決して口を開いた。

「さっき、お母さんを助けてくれた時……健人くんには、何が見えていたの?」


 その問いに、健人は息を詰まらせた。

 本当は伝えられない。ピンク色の光の中で、綾乃と心も身体も包み込まれるような不思議な感覚を共有したことなど。

 正直に話せば、誤解されるどころか、壊れてはいけない関係を壊してしまうだろう。


 「……それは……」

 言葉に詰まりながらも、健人は何とか言い繕った。

「とにかく必死だったんだ。美咲の時と同じように、戻ってきてほしいって強く思って……ただ、それだけだよ」


 そう答えた健人の表情には必死さがにじんでいたが、それが逆に美咲の疑念を深める結果となった。

 ――何かを隠してる。

 健人の言葉は嘘ではないのかもしれない。けれど、母のあの様子を説明するにはあまりに足りなかった。


 美咲は胸の奥で小さな棘のような感情を覚える。

 自分に向けられる視線の温もりとは違う。母の反応は、あまりにも女らしく、そして艶めいていた。

 ――まさか、お母さん……健人くんのことを……。

 頭に浮かんだ考えをすぐに振り払ったが、その残滓はしつこく心に残った。


 一方で綾乃もまた、心の中で別の勘違いをしていた。

 健人が自分を見つめてきたときに感じた熱。それは彼の無意識の力だと理解しているつもりだった。だが、それでも心は揺れた。

 ――健人くんは……美咲じゃなくて、私を……?

 そんな思いが、一瞬よぎってしまったのだ。

 もちろん、口にできるはずもない。母として、あまりにも許されない感情。だからこそ、余計に赤くなって俯き、娘に「隠している」と思われてしまう結果となった。


 「……そう、なのね」

 美咲は小さくつぶやき、どこか納得しきれない表情で視線を逸らした。


 健人はその態度に不安を覚えた。

 ――誤解されたかもしれない。けど、言えないんだ。あの光の中で何があったのかなんて……。

 焦る気持ちを抑えながらも、余計に言葉を選んでしまうことで、沈黙が長く伸びてしまった。


 その沈黙の中で、三人はそれぞれ違う勘違いを抱えていた。


 美咲は――母が女として健人に惹かれているのではないかと。

 綾乃は――健人の視線が自分に特別に向けられていたのではないかと。

 健人は――二人に余計な心配をかけないために事実を伏せざるを得ないと。


 静まり返った和室に、三人の心音だけが響いているように感じられた。

 その夜、彼らの胸に広がったのは、安心と同時に、互いを信じきれない小さな疑念だった。

日曜日, 8月 09, 2026

安堵と火照り

 (20)

美咲は、畳の上に横たわる母――綾乃の肩をそっと揺すった。

「……お母さん……ねえ、起きて……」


 その声に応じるように、綾乃のまぶたがゆっくりと震え、やがて開かれた。

 まどろみから引き戻されるような感覚の中で、視界に最初に飛び込んできたのは娘の顔。そして、その背後に立つ健人の姿だった。


 綾乃の胸が不意に熱くなった。

 健人の顔を見た瞬間、頬に熱が集まり、思わず視線を伏せる。

 彼の瞳の奥には、どこかこちらを包み込むような温かさがあって、それが心臓を強く締めつけた。


「……あの……ありがとう……」


 ようやくそれだけを口にしたものの、声はかすかに震えていた。

 娘の前で取り繕おうとしたが、どうしても頬の赤みは隠せなかった。


 ――あの光の中で、自分は何を見たのだろう。


 胸の奥に甦るのは、夢のような感覚。

 柔らかなピンクの光に包まれ、心がほどけ、抗えない奔流に巻き込まれるように意識を手放した瞬間。

 ただ「安心」や「穏やかさ」だけではなく、もっと奥深く、女としての芯に触れるような熱と震えが確かにあった。

 だがそれを口にすることなどできない。娘がすぐ隣にいる今、この胸の火照りを悟られるわけにはいかなかった。


 綾乃は黙したまま、震える指を畳に置いた。

 けれども、その火照りは収まらず、むしろじわじわと身体の奥から広がり続けていた。


 健人と美咲は顔を見合わせ、状況を確認しようとした。

「……とにかく、今は三人ともここにいる。お母さんも無事に戻ってこれた」

 美咲の声には安堵が混じる。

 しかしその次の言葉は、真剣な響きを帯びていた。

「でも、なんでこんなことになってるのか……やっぱり分からない。クラスの子も、街の人たちも、誰もいないし……」


 健人は深く息をつき、少し言いづらそうに口を開いた。

「美咲……やっぱり、俺の“視線”が何か関係してるんじゃないかと思うんだ。最初に美咲が言っただろ、俺に見られてると温かくなるって」


 その言葉に、美咲はうなずき、そして母へと顔を向ける。

「お母さんも……もしかして、健人くんの視線を受けたときに、何か感じなかった?」


 綾乃の心臓が跳ね上がった。

 視線だけで、あの熱が甦る。

 娘に問われて、どう答えればいいのか分からない。否定したいのに、言葉が喉につかえて出てこなかった。


 そんなときだった。

 健人が、ためらいがちに綾乃へと視線を向けてきたのだ。


 その瞬間――綾乃の世界は変わった。


 胸の奥から、熱い泉がふつふつと湧きあがる。

 血流が速まるように頬が熱くなり、呼吸が浅くなる。

 ただ見られているだけなのに、内側の奥深くが熱を帯び、脈動が伝わってくるような錯覚。


 ――これは……。


 綾乃は目を閉じた。

 視線の感触は、皮膚に触れる以上のものだった。

 娘が語っていた「チリチリとした痛み」とはまったく違う。

 それは炎のようでありながら、同時に優しく心を解き放つものだった。


 そして次第に、熱は一点に集まり、身体の奥底から熱情の奔流となって迸ってくる。

 抑えきれず、震えが指先まで伝わる。


 ――どうして……こんな……。


 彼の瞳と自分の心が、直接結びついてしまったような錯覚。

 長い間、妻であり母である自分が忘れていた「女」としての部分が、あまりにも鮮烈に呼び覚まされてしまう。


 「……はぁ……」


 思わず洩れた吐息に、自分自身が驚いた。

 目を開けると、健人の真剣な瞳がこちらを射抜いていた。

 その視線に触れるだけで、さらに熱が込み上げ、綾乃は胸元を押さえる。


 ――いけない、落ち着かなきゃ。娘の前でこんな姿……。


 だが、理性の声は熱にかき消されていく。

 恍惚に近い昂ぶりが全身を駆け巡り、言葉にならない感情が込み上げてくる。


 「お母さん……?」

 不安げな美咲の声。


 綾乃は必死に微笑みをつくり、首を横に振った。

「……大丈夫。ただ……ちょっと、熱いの」


 そう言いながらも、心臓は激しく打ち鳴らされ、身体の芯は収まりのつかない火照りに支配されていた。

 それは明らかに、健人の視線が引き起こしているものだった。


 ――どうして……この子の視線に、こんなにも……。


 理性と感情がせめぎ合う中で、綾乃は再び伏し目がちになり、震える唇を噛みしめた。

 しかしその奥で、胸の内に芽生えた感情は、もう止められるものではなかった。


日曜日, 8月 02, 2026

微睡みと安堵

 (19)

――あたたかい。


 健人は、そのひとことだけで満たされていた。


 ピンクの光は柔らかな膜のように全身を包み、肌を優しく撫でる。

 そこには不安も痛みも存在せず、ただ甘い香りと心地よい温もりだけがあった。


 その中に、美咲の母・綾乃の姿があった。

 先ほどまでの青白い燐光に揺らめく姿は消え去り、不安と怯えに彩られた顔ももうない。

 代わりにあったのは、安心に満ちた微笑と、どこか恍惚とした安らぎの表情だった。


 ――ああ……。


 その穏やかな顔を見ていると、健人の胸の奥にあった緊張も、ほどけていった。

 まるで綾乃の安心感がそのまま自分へ流れ込んでくるかのように、互いの心が共鳴していく。

 それは、美咲を支えるときに感じた心の重なりとはまた違う、母性的な大きさに包まれているような感覚だった。


 ふと気づくと、自分と綾乃はゆるやかに抱擁していた。

 それは恋人のように強く抱きしめ合うものではなく、眠る子供をあやす母の腕のような柔らかい抱擁。

 光に満ちた空間で横たわりながら、二人の身体はふわりと重なり合い、境界を失っているように思えた。


「どうして……こんなことに……」


 健人は、戸惑いと不思議さが入り混じった声で呟いた。


 その問いかけに、綾乃は静かに首を振り、耳もとへ囁く。

 その声は波の音のように穏やかで、けれど心に直接届く。


「今は……何も考えないで。……ゆっくり……おやすみなさい」


 母のような慈愛を帯びた言葉。

 その響きが健人の心をすべて解きほぐし、瞼を重くする。


「……あ……」


 抵抗することなく、健人はまどろみに身を委ねた。

 光に揺蕩う中で、綾乃の微笑みと温もりが最後に残り、深い眠りへと引き込まれていった。


 ――そして。


 どれほどの時間が経ったのかは分からない。

 闇の底から浮かび上がるように、健人は再び自分の意識を取り戻し始めた。


 ――揺さぶられている。


 肩に何度も触れる感触があり、誰かの声が遠くから届いてくる。


「……ん……」


 重たい瞼をようやく持ち上げると、そこには涙に濡れた美咲の顔があった。

 暗がりの中、月明かりが障子越しに差し込み、彼女の瞳が濡れたように輝いている。


「健人くん! よかった……! 気がついたのね……!」


 美咲は健人の肩を強く握りしめ、必死に揺さぶっていた。

 その声は安堵と泣き声が入り交じり、どれだけ彼女が恐怖と不安の中で待っていたのかが伝わってくる。


 健人は一瞬、まだ自分がどこにいるのか理解できなかった。

 夢とも幻ともつかぬピンクの光の余韻がまだ脳裏に残っていたからだ。

 だが、目を凝らせばここは見覚えのある和室。

 畳の感触が背に伝わり、天井には梁が黒々と横たわっている。


 そのとき、健人は自分の身体が綾乃と重なるように倒れていることに気づいた。

 綾乃の姿はそこに確かにある。

 しかし彼女は静かに目を閉じており、まるで深い眠りに落ちているかのようだった。

 その身体も、はっきりと輪郭が見えるのに、どこか光の残滓を纏っているように見えた。


「……俺……」

 健人は掠れた声で呟いた。

「……何が……」


 けれど、その続きを口にする前に、美咲の手が彼の頬に触れた。

 小さく震えるその指先には、温かさがあった。


「もういいの。……無事でよかった」


 美咲の声は涙で滲んでいたが、その中には確かな安堵があった。


 健人は、目の前の美咲の顔をじっと見つめた。

 すると、あのピンクの光の中で感じた「安心」がふたたび胸の奥に蘇る。

 自分がここに戻ってきたのは、美咲が必死に呼びかけ、肩を揺さぶり続けてくれたからなのだと。


 まだ身体は重く、頭は霞がかっている。

 けれど、その事実だけははっきりと理解できた。


「……美咲……ありがとう」


 かすかな声でそう告げた瞬間、美咲は堪えきれずに健人の胸に顔を埋め、泣き出した。

 和室には彼女のすすり泣きと、夜の静けさが溶け合い、静謐な時間が流れていった。


日曜日, 7月 26, 2026

燐光と微睡み

 (18)

健人の心臓は、激しく胸を叩いていた。

 目の前で淡い青の燐光に包まれ、今にも消え入りそうになっている美咲の母――佐伯綾乃。

 畳の上で横たわっていた彼女は意識を取り戻したものの、娘の美咲の声にも手にも触れられず、薄れていく存在に怯えていた。


「健人くん……お願い、お母さんを……!」


 美咲の切羽詰まった声が、健人の耳に届く。

 それはただの頼みごとではなかった。必死の祈り、命を賭けた叫び。

 健人は奥歯を強く噛み締め、覚悟を決める。


 ――美咲のときと同じようにすれば、きっと。


 自分の視線は、美咲をこの世界へ繋ぎ止めた。

 ならば、美咲の母に対しても同じことができるはずだ。


 健人は足を一歩踏み出し、綾乃の前に進み出た。

 そして、美咲の時と同じように、相手の目を真っ直ぐに見つめようとした。


「……っ!」


 だが、綾乃は驚愕に目を見開き、思わず後ろへと下がった。

 その瞬間、彼女の身体を包む燐光が大きく揺らぎ、弱まり、ほとんど消え入りそうになった。


「やだっ……!」


 美咲の悲鳴が和室に響き渡る。

 青白い光は今や頼りない火花のように揺れ、畳の上で消えかける蝋燭の炎のように心許なかった。


「待って! 逃げないで! 健人くんの視線で、私も戻れたの! だから……だからお母さんも――!」


 必死に泣き叫ぶ美咲の声に、綾乃は壁際で立ち止まった。

 その顔には困惑と恐怖、そして娘を信じたい気持ちがない交ぜに浮かんでいる。


 綾乃は深く息を吸い込み、恐る恐る健人に視線を向けた。

 二人の視線が交わる。

 けれど、揺らめく光は何も変わらなかった。


「どうして……どうして戻れないの……?」

 美咲の声は涙に震えていた。


 健人は唇を噛み、答えを探す。

 ――違う。離れていては駄目なんだ。

 美咲の時も、自分は目の前にまで近づき、互いの呼吸が触れ合うほどの距離で視線を交わした。

 あの熱と、あの想いが繋ぎ止めたのだ。


「……近づかないと」


 健人は呟き、綾乃の方へと歩み寄った。

 壁際に立つ綾乃は後ずさりしそうになるが、美咲の必死の声がそれを押し留めた。


「お母さん、お願い……健人くんを見て! 私のために……!」


 その切実な叫びに、綾乃は躊躇しながらも足を止めた。

 そして、健人はそのすぐ目の前まで歩み寄り、互いの顔が手を伸ばせば触れられる距離に迫った。


 青白い光はなお揺らいでいたが、決して消えはしなかった。


「……お願いだから」

 美咲の声が震える。

「お願いだから、お母さんを助けて……!」


 次の瞬間、美咲は健人の背後からしがみついてきた。

 その腕は健人の腰に回され、必死に後ろから押し付けるようにすがりついている。


「健人くん……お願い……!」


 その力に背を押されるようにして、健人の身体は前へ傾いた。

 気づいた時には、自分の姿が綾乃の淡い光の中に重なり合っていた。


「――っ!」


 全身を包み込む感触があった。

 冷たく青白い光ではない。

 柔らかで温かく、心地よい波に全身が抱かれるような感触だった。


 視界は一瞬で変わった。


 暗い和室も、揺らめく燐光も消え去り、代わりに世界が淡いピンクの光に満ち溢れていた。

 空気はほんのり甘く、優しい香りが鼻腔を満たす。桜の花のような、けれどもっと濃密で温かい匂い。


 ――なんだ、これは……。


 健人は自分の手足がじんわりと熱に包まれるのを感じた。

 心臓の鼓動が柔らかい波に溶けていくように、安心と眠気が一気に押し寄せてくる。


「……あったかい……」


 思わず声が漏れた。

 身体中が優しい抱擁に包まれ、痛みも不安も消えていく。

 胸の奥の緊張さえも解け、ただこの温もりに委ねてしまいたいと思った。


 目の前にはまだ青い光を纏った綾乃の姿が揺れている。

 だが、それもまた淡い桃色の光に溶け込み、境界が失われていくように感じられた。


「お母さん……」

 健人は誰にともなく呟いた。


 その瞬間、甘い香りがさらに濃くなり、頭の奥まで痺れるように染み込んでいった。

 まるで春の陽射しの中で微睡むように、意識は急速に沈んでいく。


 背後からすがりついている美咲の温もりも、どこか遠くなっていった。

 けれど確かにその存在は感じられる。

 健人は最後の力を振り絞って、美咲に心の中で応えた。


 ――大丈夫だ。必ず……。


 そう念じたところで、世界は完全に光に呑まれた。

 視界は桃色の輝きに溶け、音も匂いも全てが混じり合い、ただ温かさだけが残った。


 そして――健人の意識は深い闇へと沈んでいった。