日曜日, 2月 01, 2026

第十七話 

 夕暮れの校門を出た瞬間、拓海の声が背後から響いた。

「あかり、ちょっといいか」

振り向くと、拓海は真剣な眼差しでこちらを見ていた。その表情は、いつもと違い、何かを決意しているように見える。


足を止めたあかりは、胸の鼓動が急に早まるのを感じた。

「……どうしたの?」

問いかける声が、自分でも少しだけ震えているのがわかる。


拓海は一歩近づき、夕日の光に縁取られながら深く息を吸い込んだ。

「あかり……俺、お前のことが好きだ」


その言葉が耳に届いた瞬間、あかりの中で時間が止まったように感じた。

目の奥が熱くなり、心の奥底に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。

――やっと、聞けた。ずっと欲しかった言葉。


「……本当に?」

自分でも驚くほど小さな声で問い返すと、拓海は迷わず頷いた。

「ああ。本当に。ずっと前から、だけど……お前が悩んでるのを見て、言えなかった。でも、このままじゃ後悔すると思った」


あかりの胸の奥に、温かい光が差し込む。拓海も、自分と同じ気持ちでいてくれた。それだけで、身体の奥から幸せが広がっていくようだった。

唇が自然と笑みに形を変え、頬が熱く染まる。

「……嬉しい。私も、ずっと……」


その時、不意に脳裏をよぎったのは、冴香の笑みだった。

ホテルのラウンジで向かい合った時の、あの妖艶な眼差し。

低く甘い声で「男装しているあなたが好き」と囁かれた瞬間の心のざわめき。

そして、数度の再会を重ねる中で感じた、胸の奥を撫でるようなときめき。


――あれは何だったんだろう。恋……なのかな?

いや、拓海に対して感じているものとは違う。もっと大人びた、憧れのような、けれど確かに心を揺さぶる何か。


「あかり?」

拓海が首を傾げて呼びかける。気づけば、自分は言葉を止めてしまっていた。


「……ごめん。続き、聞かせてくれる?」

あかりは微笑んで取り繕うが、胸の奥では二つの感情がせめぎ合っていた。


拓海への想いは、間違いなく恋だとわかっている。

一緒に過ごした日々、笑い合った瞬間、落ち込んだ時に支えてくれた手の温もり――それらはすべて恋の色で染まっている。


けれど、冴香といる時に感じる、あの特別な空気。

自分の中の「普段の私」でもなく「男装している私」でもない、もうひとつの側面を見つけ出してくれる視線。

それに触れるたび、自分の中の何かが目覚めていくような感覚があった。


――私は、どっちの感情が本物なんだろう。

拓海の前で笑う私も、冴香の前で胸を高鳴らせる私も、どちらも嘘じゃない。

だけど、この二つの気持ちは同じ形じゃない。


「……私も、ずっと好きだったよ」

そう言葉にしながらも、その奥で、冴香の影は淡く揺れて消えなかった。


拓海は安堵の笑みを浮かべ、「ありがとう」と呟いた。その笑顔があかりの胸をさらに温める一方で、心のどこかが微かに疼く。

――私、これからどうするんだろう。


夕焼けに染まる道を並んで歩きながら、あかりは答えの出ない問いを胸の奥に抱え続けていた。

まるで二つの異なる旋律が、同じ心の中で静かに響き合っているように。

日曜日, 1月 25, 2026

第十六話 決意の放課後

 週明けの朝、教室のドアをくぐった拓海は、無意識にあかりの席へと視線を向けていた。

いつも通りの窓際の席。少し背を丸めてノートを開いている小さな背中。

けれど、その姿にどこか見慣れない“よそよそしさ”を感じたのは、拓海の心がまだ整理しきれていないからかもしれなかった。


――あの日の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


あかりが、誰かと歩いていた。

あの艶やかな女性と、肩を並べて微笑んでいた。

普段、拓海に見せたことのない表情で――まるで恋人に向けるような、柔らかくて、熱のこもった眼差しだった。


あの一瞬を見ただけで、拓海の胸には複雑な想いが渦巻いた。


「きっともう、俺の入る隙なんてないんだろうな……」


そう思って、その場を立ち去った。

あかりの幸せを願うなら、踏み込むべきではない――そう結論を出しかけていた。


だが、いざ教室で向かい合ってみると、拓海の心はまた、ぐらりと揺れた。


「あっ、拓海。おはよう!」


席に着いた途端、あかりがぱっと顔を上げて笑いかけてきた。

変わらないその笑顔に、ほんの少し違和感があった。

明るく、自然で、以前よりも自信に満ちている。

それなのに、どこか距離を感じる。


「お、おう。おはよう」


間の抜けた返事をしてしまった自分に苦笑しながらも、拓海は気づいていた。

確かに、あかりは変わった。

以前のように迷いや不安に囚われた表情ではなく、自分の足で立っているような、そんな強さがあった。


だけど――それでも、彼女は拓海に対して変わらず笑ってくれていた。

話しかけてくれて、冗談を言って、笑い合ってくれる。


「これ、週末に買ったやつなんだけどさ、ちょっと変じゃない?色……」


そう言って、筆箱から取り出した青と金の混ざった派手なシャープペンを見せてくるあかり。

それを見て、「なんでそんな攻めた色選ぶんだよ」と笑い返す自分がいた。


まるで何も変わっていないかのような空気。

でも、きっとあかりの中では何かが動き始めているんだろう。

それでも、こうして変わらず隣にいてくれる。


その事実が、拓海の胸を締めつけた。


「あかりは、前に進んでるんだな……」


なら、自分はどうだ?


一度は諦めかけた。

あかりの笑顔を見て、それが誰かに向けられていることに気づいて、自分はもう必要ないと。

でも、あかりは何も言っていない。

誰とどういう関係なのか、どう思っているのか、それすら知らないのに――勝手に引いて、終わらせようとしていた。


「……逃げてたのは、俺の方か」


彼女が変われたのなら、自分も変わっていいはずだ。

今のあかりに追いつきたい。

隣に立てるようになりたい。


そう思った瞬間、胸の奥に溜まっていた濁った感情が、少しだけ晴れた気がした。


放課後、教室に残る生徒はほとんどいなかった。

夕焼けが教室の窓をオレンジに染める中、あかりが鞄を背負って席を立つ。


――今しかない。


心臓が跳ねる。

喉がひりつくように乾く。

それでも、拓海は立ち上がった。


「あかり!」


教室のドアの前で振り返ったあかりの顔は、驚きと、どこか期待するような色を帯びていた。


「ん? どうしたの?」


「ちょっと……いいか。話したいことがあるんだ」


そう言った声は、自分でも驚くほど震えていた。

けれど、もう迷わなかった。


この想いは、無かったことにはできない。

あかりが変わったように、自分も変わる。

そして、伝えるべき想いは、今ここでしか言えない――そう強く感じていた。

日曜日, 1月 18, 2026

第十五話 知らない横顔

 その日、拓海はひとりで街を歩いていた。

本来なら、あかりと映画に行く約束をしていたのだが、あかりから「今日はちょっと用事がある」と連絡が入り、急遽キャンセルになった。


別に、気にするようなことじゃない。

最近のあかりは以前よりも活き活きしていて、自分の時間を持つことも増えていた。

それは喜ばしいことだ。拓海自身、あかりのそんな姿を見るたびに、安心もしていた。


……そう、安心していたはずだった。


「……あれ?」


人通りの多い駅前の大通り。

拓海は、交差点の向こうで、見覚えのある姿を見つけた。


小柄な体に、ベージュのカーディガンを羽織った人物――あかりだった。

髪は少し巻かれていて、口紅の色もいつもより華やかだ。

それだけでも、彼女が誰かと特別な時間を過ごしていることが伝わってくる。


その隣にいたのは――

艶やかな黒髪をなびかせ、上品なワンピースをまとった大人の女性。

高いヒール、洗練された所作。

一瞬で目を惹かれるような、美しさと自信を纏った人。


あかりが、彼女と歩いている。

しかも――笑っていた。


いや、それだけじゃない。

あかりのその笑顔は、拓海の知っているものとは違っていた。


いつものあかりは、どこか遠慮がちに笑っていた。

照れたように、目を細めて、控えめに表情を見せる。

でも今、彼女がその女性を見つめる瞳には、熱があった。

憧れとも、尊敬とも、恋しさともつかない――けれど確かに、特別な感情が込められていた。


拓海の足が止まった。

思わず歩道の陰に身を隠す。


気づかれてはいけない。

そう思ったわけじゃない。ただ、目を逸らすことができなかった。


二人の距離は近く、まるで長年の恋人同士のように自然に歩いている。

ときおり、あかりがその女性の腕にそっと手を添えたり、小さな声で何かを囁いたりする。

彼女の表情は、穏やかで、柔らかく、そして――幸せそうだった。


「……なんだよ、それ……」


拓海は、小さく呟いた。


胸の奥に、鋭い針を刺されたような痛みが走る。

あかりが誰と過ごそうと、彼女の自由だ。

だが、なぜこんなにも苦しいのだろう。


あかりは、男装している自分も本当の自分だと語っていた。

その自信を取り戻していく彼女を見て、拓海は心から応援してきた。

でも今、目の前にいるあかりは――拓海の知らない顔をしていた。


「……知らないよ、そんな顔……」


呟いた声は、かすれていた。


そうだ。あかりは、何も言っていなかった。

冴香という名も、彼女の存在も、すべて拓海は初めて知った。


なぜ黙っていたのか。

なぜ、これまで通りに接していたのか。

なぜ、その女性といるときだけ、そんな優しい顔をするのか。


答えは出ない。けれど、心は確かにざわついていた。


ふいに、女性があかりの耳元に何かを囁いた。

あかりは、ふっと笑って、ほんの少し頬を染めた。


その仕草が、あまりにも自然で、

あまりにも大人びていて、

拓海の中で何かが静かに崩れていくのを感じた。


――あかりは、変わってしまったのか?


いや、そうじゃない。

きっと、あかりはずっとそうだった。

ただ、自分の知らないあかりを、冴香という女性が引き出しただけなのだ。


そして、拓海には見せなかったその表情を、今、その女性にだけ向けている。


拓海は気づいていた。

あかりが悩んでいた頃、自分はただ「いつも通りのあかり」を求めていた。

安心させてくれるあかり、頼ってくれるあかり、変わらないでいてくれるあかり。


でも――


彼女は変わることを選んだ。

自分の心に正直になろうとしている。

そしてその隣には、自分ではない誰かが立っている。


交差点の信号が変わり、人波が流れ始める。


拓海は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


「……これが、答えなのか」


誰かに問いかけるように呟いたその声は、風にかき消された。


開けた瞼の先には、もうあかりと冴香の姿はなかった。

でも、その光景は拓海の胸に深く焼き付いていた。


まだ気持ちを整理できるわけじゃない。

ただ、たった今、自分の中の何かが静かに終わりを迎えたような、そんな感覚だけが残っていた。

月曜日, 1月 12, 2026

第十四話 揺れるまなざしの先に

 土曜日の午後。

人の波が緩やかなショッピングモールの中庭で、あかりは小さな噴水のそばに腰を下ろしていた。


胸の奥がざわついている。

それは、数日前から止まない揺れだった。


「私、冴香さんのこと……気になるのかな……」


呟いた言葉は、風に流れて消えた。


冴香に出会ってから、あかりの心はずっと波立っている。

拓海と一緒にいる時の安心感。

それとはまるで異なる、冴香と向き合った時の高揚。

どちらが本当の自分なのか、まだ答えは出せていなかった。


スマホを見ると、今日の予定には何もなかったはずだった。

それなのに、なぜかこの場所へ足を向けてしまったのは――


「やっぱり、来てくれたのね」


その声に、あかりは肩を跳ねさせた。


振り返ると、冴香がそこに立っていた。

すっと風を纏うような立ち姿、指先の仕草ひとつまで洗練された空気をまとっている。


「どうしてここに……」


「勘よ。あかりくんなら、きっと今日も迷ってる気がしたの」


冴香は微笑みながら隣に座り、バッグを膝の上にそっと置いた。

それだけの仕草が、なぜこんなに綺麗なのだろうと、あかりはふと思う。


「……ねえ、あかりくん」

冴香は静かに口を開いた。


「あなたが私を避けようとしてるの、気づいてたわ。でも……来てくれたのね。それがすごく嬉しい」


言葉に詰まりそうになりながら、あかりはかろうじてうなずいた。

冴香に会うのが怖かった。

この気持ちを直視するのが、怖かった。


冴香はしばらく沈黙した後、ふと視線を上げた。


「もう少し、ちゃんと話してもいいかしら?」


「……はい」


「私ね、あかりくんのことが――好きよ」


その言葉は、あまりに自然で、あまりに真っ直ぐだった。

装飾も比喩もなく、まるで呼吸するみたいに冴香は言った。


「は、はい……?」


「好き。恋愛として。あなたが男装しているかどうかなんて、正直どうでもいいの。私が惹かれたのは、あなたのまなざしであり、声であり、心なの」


胸が高鳴る。けれどそれは、喜びだけではない。

まるで見透かされてしまったような、不安と混乱が交錯する。


「でも……私……」


「わかってる。拓海くんの存在も、あなたが今、揺れていることも。

だけど、私は逃げないわ。だから――あなたの気持ちを聞かせて。今の、素直な気持ちを」


冴香の瞳が、まっすぐあかりを見つめている。

それは逃げ道のない深い湖のようで、あかりは思わず視線を逸らしそうになる。


だけど、逃げたくなかった。


あのときのラウンジ、カフェの帰り道、ふいに触れられた手――

全部が、私の中に少しずつ何かを積み上げていた。


「……怖いんです」

ようやく、声が出た。


「冴香さんといると、私、自分でも知らない感情が出てきて。男装してる自分を、自然に受け入れられる気がして。でも、これが恋なのか、それとも……誰かに必要とされる心地よさに酔ってるだけなのか、わからない」


冴香は優しく頷いた。

その仕草すら、安心できるようで、でも心をくすぐる。


「わからなくてもいいの。人の気持ちなんて、簡単に言葉にできるものじゃないから。だけど、あなたの中に“私に向けられている気持ち”があるのなら、私はそれを信じたい」


沈黙が流れる。


どこか遠くで子供の笑い声がして、噴水の水が柔らかく揺れている。


あかりはそっと息を吸った。


「私……冴香さんのこと、好きなのかもしれません。でも、それが恋かはまだ……」


「それで十分よ」


冴香はすっと手を伸ばし、あかりの指先に軽く触れた。

その温もりに、胸の奥がきゅっと締まる。


「その“かもしれない”から、始めましょう? 答えは、急がなくていいから」


あかりは、頷いた。


冴香の言葉は、まるで優しい風のようだった。

心に吹き込んで、くすぐって、でも無理には触れない。


たぶん、これが“大人の恋”というものなのかもしれない。


自分の気持ちはまだ定まっていない。

だけど、ここにある何かは、確かに自分の中に芽生えている。


その確かな芽を、今はただ静かに見つめていたかった。

月曜日, 1月 05, 2026

第十三話 揺れる香り

 冴香と再会するのは、なぜかいつも不意打ちだった。


駅の構内で、休日の書店で、カフェの前のベンチで。

どこか偶然のようでいて、まるで必然のように――あの人は、ふと私の前に現れる。


「また会えたわね。運命かしら?」


冴香の口元に浮かぶ微笑は、どこまでも艶やかで、どこか危うい。

男装をしていようと、私の心臓はいつもより早く鼓動し、口元が乾く。


一度目の出会いでは、ただ驚いただけだった。

二度目には、戸惑いの中で気恥ずかしさが勝っていた。


でも――三度、四度と会ううちに、私の心は確実に変わっていた。


「今日はどこまで歩けるかしら?」


そんな冴香の言葉に、私は思わず頷いてしまう。


ふたり並んで歩く夜道。

街灯の下、冴香の横顔は美しくて、どこか現実離れしていた。


「ねえ、あかりくん。あなたのこと、もっと知りたいわ」


その声は、耳に触れた風よりも、ずっと柔らかくて甘い。

“あかりくん”と呼ばれるたびに、私はふと意識が浮き上がるような心地になる。


気づけば、冴香との距離は確実に縮まっていた。

言葉のひとつひとつが、まるで肌を撫でるように優しくて、ふいに心の隙間に入り込んでくる。


そしてある晩。


人気の少ない路地裏のカフェで、ふたり並んでコーヒーを飲んでいた時だった。


「……あかりくん、今日はすごく綺麗ね」

冴香がふと、低く囁くように言った。


男装している私に“綺麗”という言葉は、予想外だった。

でも、冴香に言われると、それがしっくり来る気がする。

自分がどんな格好をしていても、冴香は“私”を見ているような気がして――それがくすぐったくて、こわい。


「そ、そうかな……ありがとう」

視線を逸らすと、冴香がそっと私の頬に手を添えた。


「どうして目を逸らすの? ……可愛いわね、そうやって照れるところも」


瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


まるで、少女漫画のヒロインになったような気分。

だけど、私は男装していて、あくまで“男の子”として見られているはずで――


「……ねぇ、あかりくん」

冴香の顔が、ほんの数センチ近づく。


「あなた、私にときめいてるわよね?」


その言葉は、冗談めいていながらも真っ直ぐだった。

嘘で返せない、でも本音を晒すには覚悟がいる――そんな問いだった。


私の中で、何かが揺れた。


たしかに冴香に会うたびに、心がざわついていた。

その声、目線、仕草――どれも私の心を少しずつ掴んで離さなかった。


でもそれは、本当に“恋”なのだろうか。

それとも、ただ大人の女性に翻弄されているだけ?


私は答えられなかった。


冴香はそれ以上は何も言わなかった。

ただ、微笑んで手を引き、静かにカフェを後にした。


帰り道、私は自分の手を見つめる。


さっきまで冴香が握っていたその手は、かすかに温もりを残していた。

それなのに、まるで熱を奪われたように震えていた。


「私……本当に、ときめいてるの?」


つぶやいた言葉が、夜風に消えていく。


拓海と過ごす時間も、大切なはずだった。

でも冴香といるときの私は、少し違う私になっていて――

その“違う私”を、私はどこかで求めている気がした。


冴香は、その“違い”に気づいて、近づいてきたのだ。


次に会ったら、きっと冴香はもう一歩踏み込んでくる。

その時、私はどうするんだろう。


わからない。

でも、心の奥底で、小さな期待が芽生えている自分に、私は気づいていた。


怖い。

でも――知りたい。


私の中に生まれた、この新しい感情の名前を。

日曜日, 12月 28, 2025

第十二話 知らない横顔

 最近のあかりは、どこか変わった。


いや、厳密に言えば――変わったというより、“整った”というほうが近い。

以前は、男装している自分と普段の自分の間で揺れていたような、そんな不安定な表情をよく見せていた。


けれど、今のあかりには迷いがない。


たとえば、服装。

以前は男装の日と女の子らしい服の日が分かれていて、どこか「選んでる」感じがあったけれど、今は違う。

どんな格好でも、その中に“あかり”らしさがある。

ボーイッシュなスタイルの日でも、スカートを履いた日でも、自分を偽っていない自信が滲み出ている。


「最近、何かあったの?」


ある休日、ふたりで並んで歩いていたとき、ふと聞いてみた。

街路樹の影が舗道に落ちて、日差しがちらちらと揺れていた。


「え? なんで?」

あかりは笑って、僕を見上げる。


「うーん、なんか、前より自然というか……吹っ切れた感じがして」

僕はありのままの印象を言葉にした。


「……ふふ、そうかも」

あかりは目を細めて、少し空を見上げた。


「前はね、男装してる時の自分と、女の子らしい自分と、どっちが本当なのか分からなくて……ずっともやもやしてた」


「うん。……知ってる」

あの時の、フードコートでの会話を思い出す。


「でも今は、どっちも“自分”だって思えるようになったの」

あかりの声には、しっかりとした芯があった。


「服装や振る舞いはその時々の表現でしかなくて、根っこにある私は、ずっと私なんだって。……ようやく、そう思えるようになったんだ」


その言葉に、僕は心の中で安堵した。

あかりが悩んでいたことを、近くで見ていたからこそ、今の落ち着いた表情にほっとする。


でも、同時に――ほんの少し、言葉にできない違和感が残った。


変わったことは、いいことのはずだった。

でも、その“変化”がどこか遠くに感じられた。

僕の知らない誰かとの出会いが、彼女にそう思わせたのだとしたら……。


「何か、きっかけがあったの?」

僕は自然を装って聞いた。


「うーん……内緒」

あかりはくすりと笑って、指先を口元に当てる。


冗談っぽい仕草なのに、なぜか心に引っかかる。


その夜、ベッドに寝転びながら考えた。

僕は、あかりの隣にいて、一番近くで支えられる存在でいたいと思ってた。

でも、あかりが強くなって、自信を持って、自分で進んでいく姿を見ると――誇らしい反面、どうしようもなく寂しさも覚えた。


僕の知らない時間、知らない誰か。

その中で成長していくあかりに、置いていかれている気がする。


自分が恋をしている相手が、少しずつ遠くなっていく――そんな感覚。


翌日、学校の昼休みに、あかりが男子に囲まれて笑っているのを見た。

男装したその姿は、どこからどう見ても“かっこよく”て、他の女子たちが憧れの目で見つめている。

あかりはもう、「ただの幼なじみ」じゃなくなっていた。


僕だけが知っているあかりは、どこかに行ってしまったんだろうか。


夕方、一緒に帰ろうと声をかけたとき、あかりは変わらない笑顔で僕に手を振った。

その笑顔に、僕の胸は少し痛んだ。


変わったあかりがまぶしいほど輝いていて、でもその光の中に、僕の居場所があるのか分からなくなっていた。


あかりが自分自身を肯定できたことは、何よりも嬉しい。

でも、そんな彼女の「進化」が、僕には少しだけ――寂しかった。


本当は、誰があかりに変化を与えたのか、聞いてみたい。

その人にどんな想いを抱いているのか、知りたい。


でも、それを聞いたら、もう戻れない気がした。


だから僕は、今日もただ隣を歩くだけだ。

変わっていくあかりの影に、少しずつ追いつけなくなっていくことに気づきながら――。

日曜日, 12月 21, 2025

第十一話 偶然という名の必然

 その日、あかりは拓海と一緒に映画を観てから、ショッピングモールを歩いた。

楽しい時間だった。

けれど、心の奥にはずっと、ある影が張り付いていた。


――冴香さんのことだ。


あの日以来、彼女からは何の連絡もなかった。

そもそも名刺には連絡先すら書かれていなかったし、私自身も自分の番号やアドレスを教えたわけではない。

それでも、いつかまた会える気がして――名刺はまだ、机の引き出しにしまってある。


夕暮れ、拓海と駅で別れたあと、私は一人、家までの道を歩いていた。

人通りの少ない並木道。

街灯がぽつりぽつりと灯りはじめる。

気温は少し冷えてきて、腕をさすろうとした時――声がした。


「また会えたわね、あかりちゃん」


振り返ると、そこにいたのは冴香だった。


時間が止まったように感じた。


「……どうして……ここが……?」


驚きと戸惑いで声がうわずる。

でも、冴香さんは微笑むだけだった。


「あなたのこと、少し調べたの。ごめんなさいね。名刺に連絡先、書き忘れていたでしょう?」


冗談めかして言いながらも、その目は真剣だった。

私は否応なく鼓動が早まるのを感じた。


「少しだけ、話せるかしら?」


「……はい」


気づけば、私は自然に頷いていた。


そのまま、近くの静かなカフェに入った。

窓際の席に座り、ホットティーを注文する。

以前と同じジャスミンの香りが、湯気の向こうに漂う。


「あなたに、また会いたかった」

冴香さんがそう言った瞬間、心が跳ねた。


「……私も、会いたいって思ってました」

正直な気持ちだった。


「でも、私……混乱してて。自分が何に惹かれてるのか、よくわからなくて」


「それでいいのよ」

冴香さんの声は、あくまで穏やかだった。


「気持ちは、ひとつに決めなきゃいけないものじゃない。大事なのは、あなたがあなたでいられる場所を、ちゃんと選べること」


私はその言葉に目を伏せた。

冴香さんといると、自分の心が、どこまでも裸になる。


「ねえ、あかりちゃん。今日のあなたの服、すごく似合ってるわ」

ふと、冴香さんが言った。


「男装してる姿、とても自然よ。無理してる感じがしない」


私は顔が熱くなるのを感じた。

褒められたことへの照れなのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。


「男装してる時の自分って……少し、強くなれる気がするんです」

ぽつりと呟いた。


「そうね。外見が変わると、心も自由になれる。私もそうだった」


冴香さんが語る過去の話――誰にも言えなかった自分、押し殺してきた思い。

そのすべてに私は引き込まれた。


そして、気づけば時刻は夜に差しかかっていた。


「そろそろ……帰らなきゃ」

私は言った。


冴香さんは、ふと立ち上がった。


「じゃあ、私が送るわ。家まで」


「えっ……でも……」


「心配なの。女の子を夜道に一人で帰らせるなんてできない」


そう言って冴香さんは、冗談っぽくウインクした。


……いや、私は今「女の子」に見えてる?


――なんて、頭の片隅で思ったけど、それを言葉にする余裕はなかった。


外に出ると、冷たい風が吹いていた。

その瞬間、冴香さんがさっと自分のコートを脱いで、私の肩にかけた。


「風邪ひくと困るから」


「……ありがとうございます」


肩にかかった布の重みと、そこに染み込んだ冴香さんの香水の匂いが、胸をきゅっと締めつける。


「……あかりちゃん」

家の前まで着いたとき、冴香さんが小さく呟いた。


「あなたに、ちゃんと伝えたい。私は、あなたに特別な気持ちを持ってる。

 たとえあなたが誰かを好きでも、あなたがどんな姿でも――私は、あなた自身に惹かれてる」


私は息を呑んだ。


胸が、痛いくらいに高鳴っていた。

拒絶の言葉は、出てこなかった。


それどころか、口の端が、自然に笑みに変わるのを感じた。


「……ありがとうございます」

私の声は、少し震えていた。


でも、それでも、ちゃんと目を見て答えた。


この時、私は確かに――冴香さんの言葉に、心を動かされていた。