――あの日以来、あかりは拓海と恋人らしい時間を過ごしていた。
週末には映画館や水族館、街のカフェ巡り。手をつないで笑い合い、写真を撮って、帰り道には当たり前のように「またね」と別れる。
あかりはそんな日々を嫌いではなかった。むしろ、心のどこかで「これが普通の恋なんだ」と安心している自分がいた。
けれど、あの喫茶店での再会――男装の麗人のような装いの冴香と目が合った瞬間から、何かが静かに軋みはじめた。
あの時の冴香の眼差しは、以前会った時よりもさらに強く、深く、あかりの心を見透かすようで…。
気づけば、拓海の隣に座りながらも、あかりの脳裏には冴香の姿が焼き付いて離れなかった。
「どうしたの?」
デートの帰り道、拓海が不意に尋ねた。
「ん…? なにが?」
「いや、なんか、今日はちょっと考え事してたみたいだったから」
あかりは笑ってごまかす。「そんなことないよ」
けれど胸の奥では、"本当はある" という言葉がずっと響いていた。
それからの日々も、拓海との時間は穏やかだった。
しかし時折、ふとした瞬間に冴香の声や仕草が蘇る。
あの低くて甘い声、視線を絡めた時に生まれる奇妙な熱、そして「男装しているあなたが好きよ」と囁いたあの夜の記憶。
思い出すたびに胸の奥がざわめき、息が浅くなる。
(どうして…また、こんな気持ちになるんだろう)
拓海といる時の自分は、年相応の女子高生らしく笑い、甘えることもできる。
その姿に嘘はないはずだ。
けれど、冴香といる時のあの自分も、また確かに"本物"だった。
男装をして背筋を伸ばし、言葉遣いが変わり、心の奥に隠れていた自信と高揚が湧き上がる。
そのどちらも、自分であるはずなのに――。
ある夜、ベッドに横たわりながら、あかりは天井を見つめた。
拓海とのLINEが途切れた後も、眠れない。
無意識に引き出しを開け、あの時冴香から渡された名刺を取り出す。
連絡先は書かれていない、ただ名前と、上品なデザインだけのカード。
それでも、その紙片が放つ存在感は、あかりの心を揺らすには十分だった。
「…どっちが、本当の私なんだろう」
呟いた声は、小さく震えていた。
拓海への想いは恋。
けれど冴香に対する感情は、それとは違う…はずなのに、同じくらい心を奪う力を持っている。
次の休日、拓海とデートの約束をしていた。
けれど前日から胸の奥は落ち着かず、デートの最中も笑顔の裏で意識が揺れ動く。
拓海の手の温もりを感じながら、同時に冴香の指先が手の甲に触れた時の感触が蘇ってしまう。
(こんなの、裏切りだ…)
そう思っても、感情は勝手に溢れ出す。
罪悪感と共に、冴香の笑みを思い出すたび、どうしようもなく胸が締め付けられる。
帰り道、拓海が「来週も空いてる?」と笑って聞く。
あかりは「うん」と頷きながら、その答えが本当に自分の望むものなのか、自信が持てなかった。
夜、自室の窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
あかりは名刺を手に取り、しばらく見つめた後、深く息をつく。
"拓海の隣にいる自分" と "冴香の前に立つ自分"――
二つの心が交差し、どちらが偽りで、どちらが真実なのか、答えはまだ見つからなかった。
そしてその迷いは、次に冴香と会う日を、密かに待ち望んでしまう自分の存在を、静かに肯定していた。