(29)
健人は、ソファに腰掛けたまま襖を凝視していた。暗いリビングの空気は張り詰め、ひとつ呼吸をするだけでも胸の奥に重く響くようだった。さっき聞こえた物音はもう鳴りやんでいる。それなのに、和室の襖の向こうからは「確かに何かがいる」という気配が、途切れることなく伝わってくる。
そして次の瞬間、健人の全身を硬直させる感覚が走った。
――視線。
襖の向こうから、誰かに見つめられている。しかもそれは、ただの視線ではなかった。じりじりと肌を焼くような、けれど同時に温かさも混じった、あの――自分が美咲や綾乃に向けてしまった視線の力。それと酷似しているものが、襖の奥から確かに流れ込んでいた。
「……誰だ」
声を絞り出したが、返事はない。鼓動が早鐘のように鳴り響き、背中には嫌な汗が滲む。
もう一度、震える声で問いかける。
「そこに……誰かいるのか?」
やはり沈黙。けれど、視線だけは絶え間なく注がれている。
――逃げるか?
だが背を向ければ、この視線はさらに強くなる気がした。
健人は、恐怖と好奇心の狭間で揺れ動きながら、意を決したように立ち上がった。畳に近づく足音が自分でも大きく響いて聞こえる。襖の前に立ち、震える指でそっと手をかける。
深呼吸を一度。喉が渇き、唾を飲み込む音さえも響いた。
「……っ」
思い切って襖を開いた。
目に飛び込んできた光景に、健人は一瞬言葉を失った。
そこには――鏡。
和室の奥、襖の正面に、姿見の大きな鏡が立てかけられていた。古びた木の枠に囲まれた鏡は、そこにあったはずがないものだった。つい先ほど覗いた時には、和室の奥には何もなかったはずなのだ。
だが今、その鏡は確かにそこにあり、そして鏡の中の健人が、こちらをじっと見返していた。
――俺、なのか。
鏡に映る自分の目は、まるで他人のもののように鋭く、熱を帯びていた。その視線が、まっすぐにこちらへと突き刺さり、皮膚を通り抜けて体の奥へと広がっていく。まるで内側から焼かれるような熱さ。
「……っ!」
健人は茫然と鏡に近づいた。映る自分が、まるで自分ではない誰かであるかのように感じられる。まっすぐに射抜かれるその眼差しから逃れることができなかった。
「なんなんだ……これは。誰が……」
鏡の前に立ちながら、低い声で呟く。
誰がこんなものをここに置いたのか。美咲も綾乃も寝ている。ならば、これは一体――。
考えが途切れたその時だった。
――ゾクリ。
背筋を這い上がる冷気。心臓が凍りつくような感覚に、健人は反射的に息を止めた。今度は熱ではない。冷たい視線。鏡越しに伝わるそれは、先ほどまでの自分の視線とは正反対のものだった。氷の刃のように鋭く、背中へと突き刺さってくる。
「……っ!」
健人はハッとして鏡を見つめ直した。
そこには――自分の背後に、誰かが立っている姿が映っていた。
和室の暗がりの中、輪郭はぼやけ、顔ははっきりとは見えない。だが、確かにそこには「人影」があった。そしてその影の瞳が、健人の背中に突き刺さるような冷たい光を放っているのが、鏡越しに伝わってくる。
呼吸が荒くなり、喉がカラカラに乾いた。背後にいる――だが振り返って確かめる勇気が出ない。
心臓の鼓動が頭蓋を内側から叩きつけるように響く。全身の毛穴が総立ちになり、膝がわずかに震えた。
――もし振り返ったら。
そこに本当に何かがいたら。
想像するだけで体の芯が凍りつきそうだった。だが、このまま目を逸らせば、冷たい視線に貫かれ、背中から心臓ごと抉られるような気がしてならなかった。
「……っ」
健人は唇を強く噛みしめ、震える首をほんの少しずつ回していく。鏡の中で影がじっと自分を見つめ続ける。その存在が、振り返るたびに現実のものへと近づいていく。
背後に漂う冷気は、もう首筋のすぐ近くまで迫っている。
健人は恐怖に喉を詰まらせながらも、ついに振り向こうと決意した。
――その瞬間。
鏡の中の影の瞳が、不気味に光った。
健人は息を呑み、ゆっくりと背後へと視線を向けていった。