(4)
翌朝。健人はいつもより少し早く教室に着いていた。まだざわつき始める前の静かな空気。黒板には担任の書き置きが残り、窓の外では朝の光が白く差し込んでいる。
カバンを机に置いて席に座ると、心臓が微かに高鳴るのを感じた。美咲が登校してくるのを、無意識に待っている自分がいた。
やがて廊下から足音が近づき、扉が開く。昨日の夕暮れの場面をそのまま引きずったように、美咲が姿を見せた。髪を揺らしながら席に向かい、軽く周囲の友人に挨拶して座る。
それだけのことなのに、健人の胸は不自然に高鳴った。
(……本当に俺、見ていいんだよな?)
心の中で確かめる。昨日、美咲は「また明日も私のことを見ててね」と言った。だから大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。それでも、周囲のクラスメイトの目が気になって、堂々と見つめる勇気は出なかった。
健人はノートに視線を落とすふりをしながら、タイミングを見計らって美咲へと視線を送る。横顔、髪の動き、ペンを握る指先。視線を受け止めた美咲は、ふとこちらに気づくと、小さく微笑んだ。
その瞬間、健人の心臓は一気に跳ね上がる。まるで「ちゃんと届いてるよ」と伝えられたようで、頬が熱くなる。
ほんの数秒のやり取り。だが、教室の中で二人だけの秘密の合図のように感じられた。
その日から健人は、折を見ては美咲に視線を送るようになった。授業中、先生が黒板に長い英文を書いているとき。休み時間、周囲の友達と談笑しているとき。美咲は気づくたびに軽く頷いたり、口元に柔らかな笑みを浮かべたりした。
それだけの反応なのに、健人は確かに心が満たされていくのを感じた。
(美咲が言ってたこと、本当なんだ……)
彼女にとって自分の視線は「暖かみ」であり、他人の視線の熱を和らげるものなのだという。その言葉の意味を、健人は今では信じられるようになっていた。
日々が積み重なるにつれ、健人の中で変化が起きていた。最初はただ「彼女のために見ている」だけのつもりだったのに、いつしか「見たいから見ている」に変わっていった。
彼女の笑みを見たい。彼女の反応を確かめたい。そんな欲求が芽生えていた。
放課後、昇降口で友人に呼ばれても、無意識に美咲の姿を探している。廊下ですれ違えば、目で追ってしまう。そんな自分に気づくたび、健人は胸の奥がざわめいた。
そして夜。自分の部屋に戻り、机に向かう。数学の問題集を開き、シャーペンを走らせる。だが数分もしないうちに、ノートの余白に「美咲」の文字を無意識に書きかけてしまう。慌てて消しゴムでこすり取るが、心の中からは消せない。
(……ダメだ、集中できない)
ページをめくっても、頭の中に浮かぶのは教室での美咲の横顔。視線を受けて微笑んだときの口元。放課後に友達と話しているときの笑い声。
次の問題に取りかかろうとすると、また思い出してしまう。胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんな気持ちは初めてだった。
「俺……どうしちゃったんだろ」
机に突っ伏し、鉛筆を握ったまま呟く。勉強どころではない。けれど、どうしたらいいのかもわからない。美咲にどう向き合えばいいのか。これが「好き」という感情なのかどうかさえ、自信が持てなかった。
ただ一つわかっているのは、美咲の姿が頭から離れないということ。そして、明日また教室で彼女に視線を送るのが待ち遠しいということだった。
時計の針が静かに進む音が部屋に響く。窓の外では夏の夜の虫の声が鳴いている。健人は問題集を閉じ、ペンを置いた。
胸の奥に広がるもやもやは晴れないまま。けれど、不思議と苦しいだけではなく、ほんの少し甘く心地よいざわめきでもあった。
(……明日、また美咲は笑ってくれるだろうか)
そんな思いを抱きながら、健人は机に肘をついたまま、深い溜息をついた。