春の風が、街路樹の若葉を優しく揺らしていた。
大学二年になったあかりは、駅から続く並木道を歩きながら、ふと微笑む。
横を歩く拓海は、あの頃より少し背が伸び、落ち着いた雰囲気を纏っていた。
それでも、彼の歩調は変わらず、あかりに合わせるように穏やかだ。
「……久しぶりだな、ここ」
拓海の視線の先に、小さな喫茶店が見える。
そう、あかりと冴香が初めて出会ったあの場所。
そして、拓海と二人でも何度か訪れた場所。
「うん。なんだか、懐かしい」
ドアベルの澄んだ音が、記憶の奥底をやさしく叩く。
テーブルや椅子の配置はほとんど変わっていない。
ただ、時間の流れだけが確かにここにも存在していた。
二人は窓際の席に腰を下ろす。
陽射しがテーブルに落ち、カップの影がゆらめく。
コーヒーの香りが、あかりの胸に過去と現在を重ね合わせた。
——あの頃の私。
男装して、自分を守るために別の自分を演じていた私。
冴香に出会って、揺さぶられた私。
拓海に恋をして、少しずつ変わっていった私。
すべてが、今の私を作っている。
「ねえ、あかり」
拓海がカップを置き、少し照れたように笑う。
「昔よりも、表情が柔らかくなった気がする」
「そう?」
あかりは微笑む。その笑顔には、自分でもわかるほどの余裕と温かさがあった。
その瞬間——
窓ガラスに映る自分の顔が、ふっと冴香の笑みと重なった。
それは幻か、記憶か、それとも自分の中に生きている冴香なのか。
けれど、もう驚きはなかった。
むしろ、それは心の奥で静かに寄り添う存在だった。
「ね、拓海。私、あの頃のこと、全部大事にしてるんだ」
「全部って?」
「うまく言えないけど……昔の私も、今の私も、心の中にいる色んな“私”も。全部、私だから」
拓海は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを返した。
「そういうところ、好きだよ」
あかりは少し頬を赤らめて、カップを持ち上げる。
その瞬間、胸の奥で——あの日の冴香の声が、確かに響いた。
「それでいいの。あなたは、あなたのままで」
窓の外では、春の風が街を優しく撫でていた。
過去と現在が静かに溶け合い、未来へと続く午後の時間。
あかりはそのすべてを、心から愛おしいと思った。(了)