日曜日, 3月 08, 2026

第二十二話

 翌日。

柔らかな陽射しの下、駅前の広場には休日の賑わいが満ちていた。

待ち合わせ場所に立つ拓海は、遠くから歩いてくるあかりの姿を見て、思わず息を呑んだ。


いつもなら、どこか少女らしい軽やかさのあるワンピース姿で、自然体の笑顔を浮かべている彼女。

しかし今日のあかりは、同じスリムなワンピースでも、全く違う雰囲気をまとっていた。

まぶたには薄いブラウンのアイシャドウが差し込まれ、唇には淡いルージュの艶が灯る。

そのわずかな化粧の陰影が、彼女の輪郭を大人びた印象に変え、街の光景の中でひときわ際立たせていた。


「…お、おはよう、あかり」

声が少し上ずる。


「おはよう、拓海」

穏やかに笑うあかりの視線が、真っ直ぐに彼を捉える。

それは以前よりも少し落ち着きがあり、柔らかなのに、不思議と芯の強さを感じさせるものだった。


歩き出すと、自然にあかりが半歩前を行く。

行き先や店を決めるのも、足取りのリズムも、今日は彼女が主導していた。

その背中を追いながら、拓海は胸の奥にうっすらとした戸惑いを覚える。


――何か、変わった。

でも、それが何なのか言葉にできない。


やがて二人は、とある喫茶店の前に立った。

木製のドアと、小さなステンドグラスのランプが下がる入口。

初めて来たわけではない――少なくともあかりにとっては。


「ここ…入ってみない?」

あかりが振り返り、笑みを浮かべる。

その笑顔の奥に、彼には見えない何かを秘めているような気がした。


店内に足を踏み入れると、柔らかなランプの灯りとコーヒーの香りが包み込む。

窓際の席に座ると、外の光があかりの横顔を優しく縁取った。

その姿に、拓海はつい見とれてしまう。


「なんか…今日のあかり、ちょっと大人っぽいというか…雰囲気が違うね」

意を決して口にすると、あかりは一瞬だけ瞳を細めた。


「そう?」

くすっと笑い、カップの水を一口飲む。


そして、ゆっくりと視線を拓海へと向け、柔らかな声で続けた。

「以前の私も、男装したときの私も、どちらも同じ私。…そして、心の中の私も、また同じ“ワタシ”なの」


その言葉の最後に、ほんの少しだけ妖艶な微笑みを添えた。

その笑みに、拓海は不意を突かれたように視線を泳がせる。

「そ、そうなんだ…」と呟きながら、手元のアイスコーヒーに逃げるように口をつけた。


グラスの氷がカランと鳴る。

その音を聞きながら、あかりは頬杖をつき、拓海の仕草を静かに見守っていた。

どこか慈しむような眼差しで――けれど、それは決して単なる恋人の視線だけではなかった。


(…冴香。あなたも、ここにいるんでしょう?)


カップに映る琥珀色の液面に、ふとあの日の光景が浮かぶ。

鏡の中で差し伸べられた手。

触れた瞬間に伝わった温もり。

消えていく境界、近づく瞳、耳元で囁かれた声。


あの時から――冴香は確かに、私の中に生きている。

彼女の笑顔も、声も、触れた感触も、私の奥深くで脈打ち続けている。


拓海と過ごすこの時間も、あの日冴香と過ごした瞬間も、私の中で同じ重さを持っている。

それは矛盾じゃない。

むしろ、どちらも欠かせない私の一部。


(…だから、私の心の中に一緒にいる冴香と、その思い出も――同じ“ワタシ”なんだよ)


静かにそう呟くと、胸の奥にふっと温かな風が吹き抜けた。

それは、まるで遠くから冴香が微笑んでいるような気配だった。


窓の外では、午後の陽射しが街を柔らかく染めている。

テーブル越しに拓海が不器用に笑い、あかりも微笑み返す。


その微笑みの奥に、誰にも触れられないもうひとつの温もりを抱きながら――あかりは静かに、今という時間を味わっていた。

日曜日, 3月 01, 2026

第二十一話

 部屋の空気が、さらに深く沈んだように感じられた。

鏡の中の冴香は、ゆっくりと微笑みを深め、その紅い唇から囁くような声が洩れる。


――私に触れて、一つになって。


その瞬間、あかりの胸の奥で、何かが大きく脈打った。

低く甘い声が、耳からではなく、全身に直接響いてくるようで、逃げ場はなかった。

冴香の視線は、まるで鋼の糸のようにあかりを縛りつけ、抗う力を削ぎ落としていく。


「……そんなこと、できない…」

そう言葉にしたはずなのに、喉の奥はかすれ、声にならなかった。

気が付けば、あかりの右手はゆっくりと持ち上がっていた。

まるで自分の意思ではないように――ただ、その差し出された手に引き寄せられるように。


鏡の表面が目の前に迫る。

本来なら冷たいガラスに触れるはずだった。

しかし――。


「…あ、あったかい…」


指先に感じたのは、冴香の確かな温もりだった。

柔らかく包み込むような感触が、手のひらから腕へ、そして胸の奥へと広がっていく。

戸惑いの息が漏れたと同時に、心の奥底から記憶が滲み出す。


夜の街を二人で歩いたときの足音。

肩が触れたときの微かな熱。

笑った顔と、時折見せる切なげな瞳。

あかりの世界を少しだけ変えてしまった、あの夜の冴香。


(やっぱり…忘れられない…)


その想いが胸を締め付ける。

それと同時に、周囲の空気が震え、視界がじわりと白く滲み始めた。

白い光は、雪のように柔らかで、けれども逃げ場を奪うほど強く輝いていく。


「…なに、これ…」


まぶしさに目を細めると、鏡の境界が淡く溶け始めていた。

液体が混じり合うように、こちらと向こうが一つになっていく。

冴香の姿が、もう鏡の中の存在ではなく、現実の空間に踏み出していた。


その歩みはゆっくりで、しかし確実だった。

光を背にした冴香が、あかりの目の前に立つ。

近くで見るその瞳は、かつて見たどんな時よりも深く、吸い込まれそうな色をしていた。


冴香の右手が、そっとあかりの頬に触れる。

ひやりとした指先が、すぐに体温を帯び、優しく撫でる。

あかりの喉が小さく鳴った。


「…冴香…」

呼びかけは、掠れた囁きになった。


その瞬間、冴香が微笑み、あかりの耳元に顔を寄せる。

吐息が耳朶をかすめ、その奥に直接、甘く危うい声が落ちていく。


――一つになりましょう。


その言葉と同時に、冴香の腕があかりの背へと回された。

ゆっくりと、しかし逃れられない強さで引き寄せられる。

その抱擁は温かく、同時に深い底へと誘うような感覚を持っていた。


胸の鼓動が、耳鳴りのように響く。

頭の中が熱と光で満たされ、境界線が消えていく。

現実と幻の区別が、もうつかない。


(…このまま…)

抗う気持ちが、甘美な感情に溶かされていく。

心は激しく揺れながらも、冴香の温もりを拒むことはできなかった。


視界の端が暗く滲み、意識がふっと遠のく。

最後に感じたのは、冴香の胸元から伝わる穏やかな鼓動と、甘く長い吐息だった。


そして――あかりの身体から力が抜け、意識は光の中へと溶けていった。

日曜日, 2月 22, 2026

第二十話

 夜の静けさが、あかりの部屋を包み込んでいた。

机の上には、ずっと奥にしまっていた小箱。そこには、男装していた頃に使っていたジャケットやシャツ、ネクタイが丁寧に畳まれて入っている。

指先がそれらの布地に触れた瞬間、あかりの胸の奥に、あの頃の感覚が微かに蘇った。


(…もう、やめたはずなのに)

そう思いながらも、手は止まらない。

ジャケットの肩に腕を通し、ネクタイを結び、最後に短めのウィッグを被る。鏡の前に立った瞬間、視界に映ったのは、久しぶりに見る"男装した自分"だった。


だが、不思議なことに――その姿は少しずつ輪郭を変えていく。

眉の形、唇の線、目元の鋭さ。

(…これ、私じゃない)

心臓が強く打つ。

鏡の中にいるのは、もうあかりではなかった。


そこに映っていたのは、冴香だった。

初めて出会った時よりも、さらに完成された男装の姿。

艶やかな黒髪が額をかすめ、鋭くも優しい眼差しがこちらを射抜く。

あかりは息を呑んだ。


「…どうして…?」

思わず声が漏れる。

その瞬間、鏡の中の冴香が、ゆっくりと微笑んだ。

次に、信じられないことが起こった。

鏡の中の冴香が、ほんのわずかに首を傾け、唇が動いたのだ。


――あかり。


その声は、あの時喫茶店で聞いた低く甘い声とまったく同じだった。

耳ではなく、胸の奥に直接響くような声。

あかりの背筋が震え、膝がわずかに揺れる。


――私と、一つになって。


言葉が落ちた瞬間、空気が重くなった気がした。

鏡の中の冴香が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

ガラスの向こうなのに、その指先がこちらに触れられそうなほど近い。

あかりは後ずさろうとするが、足は床に縫い付けられたかのように動かなかった。


(なに…これ…夢じゃない…)


冴香の眼差しは優しく、それでいて逃がさない。

その瞳の奥に吸い込まれそうになる。

頭の中で、過去の記憶が次々と浮かび上がる。

男装して冴香と過ごした夜。

見つめられた時の熱。

触れられた指先の感触。


(私…やっぱり…)

否定しようとしても、心がざわめき、熱を帯びていく。

鏡の中の冴香が、さらに一歩、近づいたように見えた。

距離が縮まるたびに、あかりの鼓動は速くなる。


――あかり。もう迷わないで。


その囁きは、甘美で残酷だった。

「迷ってなんか…」と言いかけた言葉は、喉で溶けた。

本当は迷っている。

拓海と過ごす温かな日常と、冴香が呼び起こす激しい高揚感。

どちらが本物なのか、もう分からない。


冴香の手が、鏡の表面をゆっくりとなぞる。

まるで境界を消し去るように。

あかりは無意識に、その手に自分の指を重ねていた。

冷たくも温かい、相反する感覚が指先から胸へと広がる。


「……っ」

視界がわずかに揺れる。

鏡の中の冴香の微笑みが、さらに深まった。

――来なさい。私の中へ。


その瞬間、あかりの心は千々に乱れた。

逃げたい気持ちと、飛び込みたい衝動が同時に膨れ上がる。

身体は動かないのに、魂だけが鏡の向こうへ引き寄せられていく感覚。

鼓動が耳鳴りに変わり、周囲の音が遠ざかっていく。


鏡の中と現実の境界が、今にも溶け合いそうだった。

そして、あかりは――息を呑んだまま、その誘惑から目を逸らすことができなかった。

木曜日, 2月 19, 2026

第十九話

 ――あの日以来、あかりは拓海と恋人らしい時間を過ごしていた。

週末には映画館や水族館、街のカフェ巡り。手をつないで笑い合い、写真を撮って、帰り道には当たり前のように「またね」と別れる。

あかりはそんな日々を嫌いではなかった。むしろ、心のどこかで「これが普通の恋なんだ」と安心している自分がいた。


けれど、あの喫茶店での再会――男装の麗人のような装いの冴香と目が合った瞬間から、何かが静かに軋みはじめた。

あの時の冴香の眼差しは、以前会った時よりもさらに強く、深く、あかりの心を見透かすようで…。

気づけば、拓海の隣に座りながらも、あかりの脳裏には冴香の姿が焼き付いて離れなかった。


「どうしたの?」

デートの帰り道、拓海が不意に尋ねた。

「ん…? なにが?」

「いや、なんか、今日はちょっと考え事してたみたいだったから」

あかりは笑ってごまかす。「そんなことないよ」

けれど胸の奥では、"本当はある" という言葉がずっと響いていた。


それからの日々も、拓海との時間は穏やかだった。

しかし時折、ふとした瞬間に冴香の声や仕草が蘇る。

あの低くて甘い声、視線を絡めた時に生まれる奇妙な熱、そして「男装しているあなたが好きよ」と囁いたあの夜の記憶。

思い出すたびに胸の奥がざわめき、息が浅くなる。


(どうして…また、こんな気持ちになるんだろう)


拓海といる時の自分は、年相応の女子高生らしく笑い、甘えることもできる。

その姿に嘘はないはずだ。

けれど、冴香といる時のあの自分も、また確かに"本物"だった。

男装をして背筋を伸ばし、言葉遣いが変わり、心の奥に隠れていた自信と高揚が湧き上がる。

そのどちらも、自分であるはずなのに――。


ある夜、ベッドに横たわりながら、あかりは天井を見つめた。

拓海とのLINEが途切れた後も、眠れない。

無意識に引き出しを開け、あの時冴香から渡された名刺を取り出す。

連絡先は書かれていない、ただ名前と、上品なデザインだけのカード。

それでも、その紙片が放つ存在感は、あかりの心を揺らすには十分だった。


「…どっちが、本当の私なんだろう」

呟いた声は、小さく震えていた。

拓海への想いは恋。

けれど冴香に対する感情は、それとは違う…はずなのに、同じくらい心を奪う力を持っている。


次の休日、拓海とデートの約束をしていた。

けれど前日から胸の奥は落ち着かず、デートの最中も笑顔の裏で意識が揺れ動く。

拓海の手の温もりを感じながら、同時に冴香の指先が手の甲に触れた時の感触が蘇ってしまう。


(こんなの、裏切りだ…)

そう思っても、感情は勝手に溢れ出す。

罪悪感と共に、冴香の笑みを思い出すたび、どうしようもなく胸が締め付けられる。


帰り道、拓海が「来週も空いてる?」と笑って聞く。

あかりは「うん」と頷きながら、その答えが本当に自分の望むものなのか、自信が持てなかった。


夜、自室の窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。

あかりは名刺を手に取り、しばらく見つめた後、深く息をつく。

"拓海の隣にいる自分" と "冴香の前に立つ自分"――

二つの心が交差し、どちらが偽りで、どちらが真実なのか、答えはまだ見つからなかった。


そしてその迷いは、次に冴香と会う日を、密かに待ち望んでしまう自分の存在を、静かに肯定していた。

日曜日, 2月 08, 2026

第十八話

 土曜日の昼下がり。

 あかりと拓海は、駅前の小さな商店街を歩いていた。ガラス張りの喫茶店の窓越しに見える、春色のワンピースを着た自分の姿がふと視界に入る。柔らかな生地が風に揺れ、拓海の隣を歩く足取りも自然と軽くなる。


 「今日の服、似合ってるな」

 拓海の何気ない一言に、あかりは頬をほんのり染めて笑った。

 ——最近のデートでは、もう男装をすることはなくなっていた。女の子としての自分を意識して、服も仕草も、年相応の女子高生らしいものへと変わっていった。

 男装は、自分の殻を破るためのきっかけだった。でも、あの頃のように必要以上に背伸びをすることも、男の自分を演じることも、今はもうしなくていい。そう思える日が続いていた。


 ふたりは喫茶店の前で立ち止まり、ランチのメニューを眺めて中へ入った。古い木製のドアを開けると、カランとベルの音が響き、深煎りのコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 ——ここは、冴香と最初に出会った場所だった。

 けれど今は、その記憶も少し遠く、曖昧な霞の中に沈みかけている。


 席に着くと、窓から差し込む午後の陽射しがテーブルを照らす。拓海は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。

 あかりはスマホを手に取り、何気なくタイムラインを眺めていた。そのとき——


 「……やっぱり、あなただったのね」


 低く、よく通る声が耳に届いた。

 顔を上げた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。


 そこに立っていたのは、冴香——。

 けれど以前の彼女とは、まるで別人のようだった。


 漆黒のジャケットは身体のラインを引き締め、深く開いたVゾーンからは真っ白なシャツが覗く。ネクタイは緩く垂れ、袖口からは細くしなやかな手首が見えた。艶やかな黒髪はサイドでまとめられ、顔立ちは一層際立っている。

 男装、と呼ぶにはあまりに洗練された、男でも女でもない中性的な美しさ——まさに「麗人」という言葉がぴったりだった。


 周囲の客が振り返り、目を奪われているのが分かる。

 その中心で、冴香はまっすぐあかりを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 「……お久しぶり」

 その笑みは、以前の大人びた微笑みよりも、どこか挑発的だった。

 「こんなところで会えるなんて、運命かしら」


 あかりは息を呑んだ。

 ——なぜ、今? どうして、この姿で?

 心臓が速く脈打ち、耳の奥が熱を帯びていく。


 「今日は……友達と?」

 「……うん」

 答える声が少し掠れてしまう。


 冴香はあかりの向かいの空いた席に、何のためらいもなく腰を下ろした。香水のほのかな香りがふわりと漂い、その存在感に圧倒される。

 あかりは視線を逸らそうとするが、自然と目が吸い寄せられてしまう。


 「変わったわね、あかりちゃん」

 「え……?」

 「前はもっと、自分を守るために殻をかぶっていた。今は……素直な顔をしてる」

 冴香の目は柔らかくも鋭く、心の奥を覗き込むようだった。


 言葉を返そうとして、口が動かない。

 胸の奥で、懐かしいような、新しいような感情が渦を巻く。

 ——憧れ? ときめき? それとも、もっと……。


 冴香は微笑み、テーブルの端に指先を置いた。

 その仕草だけで、空気が少し張りつめる。


 「あのときのあなたも素敵だったけど、今のあなたは……もっと魅力的よ」


 ドキ、と心臓が跳ねる。

 言葉の意味を理解するより早く、頬が熱くなった。

 ——拓海が隣にいない今、この瞬間の自分の心は、どこへ向かおうとしている?


 冴香は立ち上がり、軽く会釈をして「またね」とだけ言い残して去っていった。

 背中がドアの向こうに消えるまで、あかりは何もできなかった。


 間もなく、拓海が戻ってきた。

 「どうかした?」と笑顔で尋ねる声に、あかりは慌てて「ううん、何でもない」と返す。


 けれど、胸の鼓動はまだ落ち着かない。

 ——さっきまで忘れかけていた感情が、確かに蘇ってしまった。

 それは、拓海への恋とは違う、けれど確かに自分の中に存在する、もう一つの熱だった。


 その日、あかりは拓海と並んで歩きながら、ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 そこには、恋人と過ごす女の子の笑顔と、さっき冴香に見せたはずの、知らない自分の表情が重なっていた——。

日曜日, 2月 01, 2026

第十七話 

 夕暮れの校門を出た瞬間、拓海の声が背後から響いた。

「あかり、ちょっといいか」

振り向くと、拓海は真剣な眼差しでこちらを見ていた。その表情は、いつもと違い、何かを決意しているように見える。


足を止めたあかりは、胸の鼓動が急に早まるのを感じた。

「……どうしたの?」

問いかける声が、自分でも少しだけ震えているのがわかる。


拓海は一歩近づき、夕日の光に縁取られながら深く息を吸い込んだ。

「あかり……俺、お前のことが好きだ」


その言葉が耳に届いた瞬間、あかりの中で時間が止まったように感じた。

目の奥が熱くなり、心の奥底に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。

――やっと、聞けた。ずっと欲しかった言葉。


「……本当に?」

自分でも驚くほど小さな声で問い返すと、拓海は迷わず頷いた。

「ああ。本当に。ずっと前から、だけど……お前が悩んでるのを見て、言えなかった。でも、このままじゃ後悔すると思った」


あかりの胸の奥に、温かい光が差し込む。拓海も、自分と同じ気持ちでいてくれた。それだけで、身体の奥から幸せが広がっていくようだった。

唇が自然と笑みに形を変え、頬が熱く染まる。

「……嬉しい。私も、ずっと……」


その時、不意に脳裏をよぎったのは、冴香の笑みだった。

ホテルのラウンジで向かい合った時の、あの妖艶な眼差し。

低く甘い声で「男装しているあなたが好き」と囁かれた瞬間の心のざわめき。

そして、数度の再会を重ねる中で感じた、胸の奥を撫でるようなときめき。


――あれは何だったんだろう。恋……なのかな?

いや、拓海に対して感じているものとは違う。もっと大人びた、憧れのような、けれど確かに心を揺さぶる何か。


「あかり?」

拓海が首を傾げて呼びかける。気づけば、自分は言葉を止めてしまっていた。


「……ごめん。続き、聞かせてくれる?」

あかりは微笑んで取り繕うが、胸の奥では二つの感情がせめぎ合っていた。


拓海への想いは、間違いなく恋だとわかっている。

一緒に過ごした日々、笑い合った瞬間、落ち込んだ時に支えてくれた手の温もり――それらはすべて恋の色で染まっている。


けれど、冴香といる時に感じる、あの特別な空気。

自分の中の「普段の私」でもなく「男装している私」でもない、もうひとつの側面を見つけ出してくれる視線。

それに触れるたび、自分の中の何かが目覚めていくような感覚があった。


――私は、どっちの感情が本物なんだろう。

拓海の前で笑う私も、冴香の前で胸を高鳴らせる私も、どちらも嘘じゃない。

だけど、この二つの気持ちは同じ形じゃない。


「……私も、ずっと好きだったよ」

そう言葉にしながらも、その奥で、冴香の影は淡く揺れて消えなかった。


拓海は安堵の笑みを浮かべ、「ありがとう」と呟いた。その笑顔があかりの胸をさらに温める一方で、心のどこかが微かに疼く。

――私、これからどうするんだろう。


夕焼けに染まる道を並んで歩きながら、あかりは答えの出ない問いを胸の奥に抱え続けていた。

まるで二つの異なる旋律が、同じ心の中で静かに響き合っているように。

日曜日, 1月 25, 2026

第十六話 決意の放課後

 週明けの朝、教室のドアをくぐった拓海は、無意識にあかりの席へと視線を向けていた。

いつも通りの窓際の席。少し背を丸めてノートを開いている小さな背中。

けれど、その姿にどこか見慣れない“よそよそしさ”を感じたのは、拓海の心がまだ整理しきれていないからかもしれなかった。


――あの日の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


あかりが、誰かと歩いていた。

あの艶やかな女性と、肩を並べて微笑んでいた。

普段、拓海に見せたことのない表情で――まるで恋人に向けるような、柔らかくて、熱のこもった眼差しだった。


あの一瞬を見ただけで、拓海の胸には複雑な想いが渦巻いた。


「きっともう、俺の入る隙なんてないんだろうな……」


そう思って、その場を立ち去った。

あかりの幸せを願うなら、踏み込むべきではない――そう結論を出しかけていた。


だが、いざ教室で向かい合ってみると、拓海の心はまた、ぐらりと揺れた。


「あっ、拓海。おはよう!」


席に着いた途端、あかりがぱっと顔を上げて笑いかけてきた。

変わらないその笑顔に、ほんの少し違和感があった。

明るく、自然で、以前よりも自信に満ちている。

それなのに、どこか距離を感じる。


「お、おう。おはよう」


間の抜けた返事をしてしまった自分に苦笑しながらも、拓海は気づいていた。

確かに、あかりは変わった。

以前のように迷いや不安に囚われた表情ではなく、自分の足で立っているような、そんな強さがあった。


だけど――それでも、彼女は拓海に対して変わらず笑ってくれていた。

話しかけてくれて、冗談を言って、笑い合ってくれる。


「これ、週末に買ったやつなんだけどさ、ちょっと変じゃない?色……」


そう言って、筆箱から取り出した青と金の混ざった派手なシャープペンを見せてくるあかり。

それを見て、「なんでそんな攻めた色選ぶんだよ」と笑い返す自分がいた。


まるで何も変わっていないかのような空気。

でも、きっとあかりの中では何かが動き始めているんだろう。

それでも、こうして変わらず隣にいてくれる。


その事実が、拓海の胸を締めつけた。


「あかりは、前に進んでるんだな……」


なら、自分はどうだ?


一度は諦めかけた。

あかりの笑顔を見て、それが誰かに向けられていることに気づいて、自分はもう必要ないと。

でも、あかりは何も言っていない。

誰とどういう関係なのか、どう思っているのか、それすら知らないのに――勝手に引いて、終わらせようとしていた。


「……逃げてたのは、俺の方か」


彼女が変われたのなら、自分も変わっていいはずだ。

今のあかりに追いつきたい。

隣に立てるようになりたい。


そう思った瞬間、胸の奥に溜まっていた濁った感情が、少しだけ晴れた気がした。


放課後、教室に残る生徒はほとんどいなかった。

夕焼けが教室の窓をオレンジに染める中、あかりが鞄を背負って席を立つ。


――今しかない。


心臓が跳ねる。

喉がひりつくように乾く。

それでも、拓海は立ち上がった。


「あかり!」


教室のドアの前で振り返ったあかりの顔は、驚きと、どこか期待するような色を帯びていた。


「ん? どうしたの?」


「ちょっと……いいか。話したいことがあるんだ」


そう言った声は、自分でも驚くほど震えていた。

けれど、もう迷わなかった。


この想いは、無かったことにはできない。

あかりが変わったように、自分も変わる。

そして、伝えるべき想いは、今ここでしか言えない――そう強く感じていた。