(32)
健人の頭の中は、先ほどからのやり取りで混乱の極みにあった。
――俺がこの世界を望んだ? 記憶を失った?
もう一人の健人の言葉が頭の中で渦巻き、真実と嘘の境界が分からなくなる。彼の冷笑と、呆れ果てた吐息。その一つ一つが心の奥をかき乱して、思考をまともに働かせてくれない。
だが、その時だった。
健人の背筋に、また別の感覚が走った。
背後から――強い「視線」。
それは“もう一人の健人”が放つ冷徹な光とは違った。もっと湿り気を帯びた、哀切を含んだ視線。胸の奥をそっとなぞるような優しさと、同時に底知れぬ闇を抱えたようなものだった。
健人はおそるおそる振り返った。
その瞬間、言葉を失った。
そこに立っていたのは、一人の女性。
黒い薄手のレース地で仕立てられたロングドレスが、夜の闇に溶けるように揺らめいていた。月光も灯りもないはずの和室の中で、彼女の輪郭だけが仄かに浮かび上がり、現実離れした存在感を放っている。
肌はわずかに青白く、生命の温もりよりも幽玄な静けさを湛えていた。だが、その顔立ちは驚くほど整っていて、どこか人ならざる美を帯びている。
そして――なによりも目。
彼女の瞳は、澄み切ったターコイズの石をそのまま嵌め込んだように透き通り、深海を覗き込むような冷たさと、言葉にできない哀しみをたたえていた。
健人は喉がひゅっと狭まり、声を出せない。
女はただ、じっと彼を見つめていた。その視線は刺すようでありながら、同時に縋るように切実でもある。
「……誰、なんだ……?」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
すると女は小さく首を振り、寂しげに唇を開いた。
「あなたは、魔界の王子――わたしは、あなたの婚約者」
その一言で、健人の思考は完全に停止した。
魔界? 王子? 婚約者?
途方もなさすぎる言葉が唐突に突きつけられ、意味をつかむよりも先に現実感が吹き飛ぶ。
「ま、待て……なにを言って……?」
健人は後ずさろうとした。だが女は一歩、また一歩と滑るように近づいてくる。そのたびに黒いドレスの裾が畳の上を流れ、静かな和室が異界の舞台へと変貌していくようだった。
そして――距離がゼロになった瞬間。
女は両腕を健人の首に絡め、そのまま抱きついた。
「……どうして」
彼女の声は震えていた。耳元にかかる吐息が熱いのか冷たいのか分からない、不思議な感触を残す。
「どうして、私のことを忘れてしまったの?」
健人の全身が硬直した。
忘れた? 彼女を?
だが自分はこの女を一度も見たことがない。
少なくとも、記憶の中には存在しない。
――本当に?
ふと、先ほど“もう一人の健人”が放った言葉が蘇る。
――記憶を失くしてしまったのか。
健人の心臓は耳の奥で轟音のように鳴り、喉は乾ききって声が出ない。
「……っ……」
絶句したまま、彼はただ女の腕に絡め取られて立ち尽くした。
彼女のターコイズの瞳が間近に揺れ、悲しげに細められる。
その視線が、どこまでも深く心の奥に沈み込んでくるようで――健人は抗う術を失っていた。