(10)
校内を歩き回っても、やはり誰の気配もなかった。廊下には昨日までの授業の残り香が漂っているのに、黒板には消されていないチョークの跡が残っているのに、その場にいたはずの人間が忽然と消えてしまったかのようだ。
「とりあえず、何か食べるものがないと」
健人がそう言って、美咲を促す。二人は一階の昇降口近くにある売店へ向かった。
がらり、と引き戸を開けると、中は薄暗く、だが整然としていた。棚にはまだ商品が並んでおり、紙パックのジュースやペットボトルの水、パンやスナック菓子が少し残っている。
「……残ってる」
美咲が小さく息を呑んだ。
健人は慎重に棚から二つのパンと、ペットボトルの水を手に取る。
「とりあえず、これで朝食にしよう。後でまた考えればいい」
「うん……」
二人は売店横の休憩用ベンチに腰掛け、パンを分け合って食べ始めた。
ふわりと甘い香りが口いっぱいに広がり、思わず健人は肩の力を抜いた。
「……なんか、普通にうまいな」
そう言った健人の言葉に、美咲は思わず吹き出す。
「ふふっ……当たり前じゃない。昨日まで食べてたのと同じだよ」
「いや、状況が状況だからさ。味わう余裕もなくなるかと思ったけど……」
「意外と人間って、食べ物で落ち着くんだね」
二人は顔を見合わせ、声を殺すように笑った。
ほんの少し前まで張りつめていた緊張が、ゆるりと解けていく。
パンを半分食べ終えた頃、健人はふと口を開いた。
「なあ、美咲……これ、昨日の夜のあの瞬間から人が消えたんじゃないかって思うんだ」
「……白い閃光に包まれた時?」
「そう。売店だって、昨日の昼休みまで普通に使われてたように見えるし……賞味期限も切れてない。机も椅子も、全部そのまま。まるで俺たちだけ置いていかれたみたいに」
美咲は少し考え込むように視線を落とした。
「……じゃあ、やっぱり健人くんの視線が……鍵?」
その言葉に、健人は一瞬言葉を失った。
思い返せば、彼女が「視線のおかげで痛みが消える」と言ったことから全てが始まった。
そして昨日の赤い光も、視線を必死に送り続けた結果だった。
「……分からないけど。でも、そう考えると辻褄は合う気がする」
健人が答えると、美咲は小さく頷いた。
その時だった。
健人がいつものように美咲をそっと盗み見ると、美咲がわずかに肩を揺らした。
「……っ」
「どうした?」
「……今、また……温かみを感じた」
「え? 俺、見てただけだけど」
「うん……でも、さっきと違うの。……耳とか頬じゃなくて……背中に」
美咲は自分でも信じられない、といった顔で言った。
その視線には少し怯えが混じっている。
健人は眉を寄せ、周囲をぐるりと見渡した。
だが、売店の中には二人しかいない。
外の廊下も静まり返っており、風の音すらしない。
「……気のせいじゃないのか?」
「分からない。でも……確かに感じたの。背中の真ん中が、じんわり温かくなって……」
美咲の声は震えていた。
健人もまた、得体の知れない不安を覚えた。
もし健人の視線が鍵だとしたら――では、背中に感じた温かさは誰のものなのか。
二人は顔を見合わせ、言葉を失った。
さっきまでの冗談めいた会話は跡形もなく消え、売店の空気が再び重苦しく沈んでいく。
パンの甘さも、口の中で砂のように感じられる。
冷たい現実が、二人を再び包み込もうとしていた。