(26)
布団の中で小さく震えている美咲の肩を見つめながら、健人は胸の奥が張り裂けそうに痛んでいた。
美咲のすすり泣きが、暗い部屋の中に細く途切れ途切れに響いている。その声は、自分と綾乃に向けられた疑念と悲しみの結晶のように感じられた。
「……美咲」
健人はそっと声を掛けた。布団の山がわずかに揺れたが、返事はない。彼は一度深呼吸をしてから、言葉を絞り出した。
「さっき……綾乃さんと俺が重なってしまった時、確かに俺はすごく混乱した。だけど、その時に俺が感じていたのは……美咲に向けられたお母さんの温かさだったんだ」
健人の声は真剣で、震えていた。
布団の中で聞いている美咲に、その響きがどう届いているのかは分からない。けれど、言わなければならないと思った。
「光の中で、俺は母親のような優しさと、安心感に包まれて……それが美咲を守ってきた力なんだって思った。だから、あの時綾乃さんが混乱してしまったのは、俺の視線の力が強く効きすぎてしまったからなんだと思う」
隣に立つ綾乃は唇を噛み、しばらく迷ったようにうつむいていた。
だが、やがて小さな声で続けた。
「美咲……本当にごめんなさい。お母さん、あの時取り乱してしまったの。あなたの前で恥ずかしい姿を見せた。でもね、健人くんの言う通りなの。彼が悪いんじゃなくて……私がその力に飲まれてしまっただけなの」
その声は、涙で震えていた。
布団の中の美咲は、母の言葉を聞きながら心が揺れ動いていた。自分をいつも温かく包んでくれる母の声が、今はどこか弱々しくて頼りなげだ。けれど、その必死な響きには嘘をついている気配はないように思えた。
健人の言葉もまた、どこまでも真剣に響いていた。
美咲の背中に、じんわりと温かさが伝わってくる。布団越しにも関わらず、彼の視線が背中に注がれているのだと分かった。
(……これ、健人の視線……)
その温かさは、痛みや嫌悪を呼ぶものではなかった。むしろ、身体の奥がじんわりと解けていくような感触に、美咲は不思議な安堵を覚えた。
ゆっくりと、布団の端を押し下げ、顔だけを出す。
瞳は涙で赤く潤んでいたが、それでも健人と綾乃をまっすぐに見ようとした。
「……本当に、そうなの?」
か細い声が闇の中に響く。
健人と綾乃は同時に頷いた。だが、美咲は視線を落とし、小さく呟く。
「……信じたい。けど……頭の中で想像しちゃって……怖いの」
健人は言葉を失う。そんな彼に、美咲はためらいがちに続けた。
「もし……健人と私が、同じように近づいたら……健人と私が違うものを見るかもしれない。それが分かれば……きっと信じられると思う」
その告白は、少女の不安と決意が入り混じったものだった。
健人の心臓は跳ね上がる。そんなことをしていいのか――。
視線を向けるだけで、相手の心や感覚に影響を与えてしまう力。それを美咲に試すというのは、あまりにも危うい。
しかし、今のままでは美咲の誤解は解けない。彼女を苦しませたまま放っておくことなどできなかった。
健人は綾乃の方に視線を向けた。
「……綾乃さん。俺……美咲に変なことをするつもりはありません。ただ、誤解を解くために……試させてもらえませんか?」
綾乃の瞳が揺れる。
自分があの光の中で感じた激情を、娘に同じように感じさせてしまうのではないか。そんな恐怖とためらいが胸を締め付ける。
だが、美咲が納得するためには、彼女自身が確かめるしかない。綾乃がいくら説明しても、言葉だけでは伝えきれないのだ。
長い沈黙ののち、綾乃はそっと頷いた。
「……分かったわ。美咲のために、やってみて」
その声には、母親としての苦渋と覚悟が入り混じっていた。
健人は強く息を吐いた。
緊張で喉が渇き、指先が汗ばむ。けれど、逃げることはできなかった。
彼はゆっくりと布団の前に座り込み、美咲の顔を真正面から見つめる位置に腰を下ろした。
布団の端から覗く美咲の顔は赤く、まだ涙の痕が残っている。
「……美咲。顔を上げて……俺の目を見て」
そう告げる健人の声は震えていた。
美咲は一瞬ためらったが、やがて布団を少し下ろし、膝の上で手を握りしめながら顔を上げていった。
二人の視線が、月明かりの中でゆっくりと重なった――。