(27)
美咲は布団の端をぎゅっと握りしめていた。顔は赤く、まだわずかに潤んだ瞳をしている。けれど、健人の静かな声に促されるように、ゆっくりとその視線を上げていった。
そこにあったのは、何の濁りもない、ただ真っすぐに自分を映す健人の瞳だった。
「……っ」
胸の奥がきゅっと締めつけられる。次の瞬間、美咲の内に、ぽうっと小さな太陽のような暖かさが広がった。それは痛みでも熱でもなく、春の陽だまりに身を預けたような、柔らかな温もり。彼の瞳と視線が交わるだけで、心が自然と解けていくのを感じた。
これまで胸の奥に溜まっていた不安や、母と健人に対する誤解の影が、すうっと溶けて消えていく。代わりに訪れたのは、静かな幸福感だった。
「……なんで、こんなに……」
美咲は小さく呟き、言葉を最後まで紡ぐ前に、ふっと瞼が重くなる。健人の視線に包まれたまま、まるで子どもの頃、母の胸に抱かれて眠りについた時のように、心が安らかになっていった。
――眠い。
そう思った瞬間、抵抗できずに頭がかくんと下がり、布団に頬を寄せていた。
「美咲……?」
健人が小さな声で呼びかける。だが、返事はなかった。代わりに、美咲の肩がゆるやかに上下し、規則正しい寝息が聞こえてくる。
その表情は、あどけないほどに穏やかだった。ほんの少し前まで涙をにじませ、戸惑いと不信の色を浮かべていた顔が、今は安堵に満ちている。まるで健人の視線に導かれて、心の奥の迷いがほどけ、そのまま安らぎへと落ちていったかのようだった。
「眠っちゃった……んだな」
健人はぽつりと呟いた。
隣に座って見守っていた綾乃は、その寝顔をじっと見つめていた。自分が健人の視線を受けた時は、心が揺さぶられ、母としてではなく女としての激情に流されかけた。あの時の混乱と恥ずかしさを思い出すと、今も胸が熱くなる。
けれど、目の前の美咲はどうだろう。
彼女はただ静かに、幸福そうに眠っている。その呼吸は穏やかで、頬はやわらかい光に照らされたように柔和な色を帯びていた。
「……良かった」
綾乃は胸に手を当て、安堵の息をついた。
自分のように激情に流されることなく、娘はただ優しさに包まれて眠りについた。その事実が、どれほど救いになったか。
健人は少し緊張した面持ちで、美咲の寝顔からゆっくりと身体を離した。まるで壊れやすい硝子細工を扱うような慎重さで、布団の端を直し、彼女が快適に眠れるよう整えていく。その仕草に、綾乃は思わず微笑んだ。
「健人くん……やっぱり、あなたの力は不思議ね」
綾乃が小声で呟くと、健人は肩をすくめて苦笑する。
「俺自身、よく分からないんです。ただ、見ていたら……安心してくれるみたいで」
「ええ。美咲を見ていても、それがよく分かるわ」
二人はしばし、美咲の寝顔を見守った。時折、彼女の唇が小さく動き、微笑むような仕草を見せる。それだけで、この部屋の空気はどこか柔らかく、温かなものに変わっていく。
健人は、そんな雰囲気に包まれながら、心の奥に浮かんできた思いを抑えきれずに口にした。
「……これで、美咲の誤解、少しは解けたかな」
言葉は独り言のように小さかったが、隣の綾乃にはしっかり届いていた。綾乃は静かに頷き、そして健人の横顔を見やり、柔らかく笑った。
「ええ……きっとね。でも、それは美咲が起きた時にしか分からないわ。起きたら聞いてみましょう」
「……はい」
健人もまた微笑み返す。二人の視線が自然と交わり、互いに小さな安心を分け合うように、微笑が重なった。
部屋には静けさが戻っていた。美咲の寝息が規則正しく響き、夜の闇は柔らかな布のように三人を包み込んでいる。
不安と誤解に揺れた心は、ひとときの安らぎの中で落ち着きを取り戻していた。
そして――健人と綾乃は、微笑み合ったまま、しばしその穏やかな時間を噛みしめていた。