夜の静けさが、あかりの部屋を包み込んでいた。
机の上には、ずっと奥にしまっていた小箱。そこには、男装していた頃に使っていたジャケットやシャツ、ネクタイが丁寧に畳まれて入っている。
指先がそれらの布地に触れた瞬間、あかりの胸の奥に、あの頃の感覚が微かに蘇った。
(…もう、やめたはずなのに)
そう思いながらも、手は止まらない。
ジャケットの肩に腕を通し、ネクタイを結び、最後に短めのウィッグを被る。鏡の前に立った瞬間、視界に映ったのは、久しぶりに見る"男装した自分"だった。
だが、不思議なことに――その姿は少しずつ輪郭を変えていく。
眉の形、唇の線、目元の鋭さ。
(…これ、私じゃない)
心臓が強く打つ。
鏡の中にいるのは、もうあかりではなかった。
そこに映っていたのは、冴香だった。
初めて出会った時よりも、さらに完成された男装の姿。
艶やかな黒髪が額をかすめ、鋭くも優しい眼差しがこちらを射抜く。
あかりは息を呑んだ。
「…どうして…?」
思わず声が漏れる。
その瞬間、鏡の中の冴香が、ゆっくりと微笑んだ。
次に、信じられないことが起こった。
鏡の中の冴香が、ほんのわずかに首を傾け、唇が動いたのだ。
――あかり。
その声は、あの時喫茶店で聞いた低く甘い声とまったく同じだった。
耳ではなく、胸の奥に直接響くような声。
あかりの背筋が震え、膝がわずかに揺れる。
――私と、一つになって。
言葉が落ちた瞬間、空気が重くなった気がした。
鏡の中の冴香が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
ガラスの向こうなのに、その指先がこちらに触れられそうなほど近い。
あかりは後ずさろうとするが、足は床に縫い付けられたかのように動かなかった。
(なに…これ…夢じゃない…)
冴香の眼差しは優しく、それでいて逃がさない。
その瞳の奥に吸い込まれそうになる。
頭の中で、過去の記憶が次々と浮かび上がる。
男装して冴香と過ごした夜。
見つめられた時の熱。
触れられた指先の感触。
(私…やっぱり…)
否定しようとしても、心がざわめき、熱を帯びていく。
鏡の中の冴香が、さらに一歩、近づいたように見えた。
距離が縮まるたびに、あかりの鼓動は速くなる。
――あかり。もう迷わないで。
その囁きは、甘美で残酷だった。
「迷ってなんか…」と言いかけた言葉は、喉で溶けた。
本当は迷っている。
拓海と過ごす温かな日常と、冴香が呼び起こす激しい高揚感。
どちらが本物なのか、もう分からない。
冴香の手が、鏡の表面をゆっくりとなぞる。
まるで境界を消し去るように。
あかりは無意識に、その手に自分の指を重ねていた。
冷たくも温かい、相反する感覚が指先から胸へと広がる。
「……っ」
視界がわずかに揺れる。
鏡の中の冴香の微笑みが、さらに深まった。
――来なさい。私の中へ。
その瞬間、あかりの心は千々に乱れた。
逃げたい気持ちと、飛び込みたい衝動が同時に膨れ上がる。
身体は動かないのに、魂だけが鏡の向こうへ引き寄せられていく感覚。
鼓動が耳鳴りに変わり、周囲の音が遠ざかっていく。
鏡の中と現実の境界が、今にも溶け合いそうだった。
そして、あかりは――息を呑んだまま、その誘惑から目を逸らすことができなかった。