木曜日, 2月 19, 2026

第十九話

 ――あの日以来、あかりは拓海と恋人らしい時間を過ごしていた。

週末には映画館や水族館、街のカフェ巡り。手をつないで笑い合い、写真を撮って、帰り道には当たり前のように「またね」と別れる。

あかりはそんな日々を嫌いではなかった。むしろ、心のどこかで「これが普通の恋なんだ」と安心している自分がいた。


けれど、あの喫茶店での再会――男装の麗人のような装いの冴香と目が合った瞬間から、何かが静かに軋みはじめた。

あの時の冴香の眼差しは、以前会った時よりもさらに強く、深く、あかりの心を見透かすようで…。

気づけば、拓海の隣に座りながらも、あかりの脳裏には冴香の姿が焼き付いて離れなかった。


「どうしたの?」

デートの帰り道、拓海が不意に尋ねた。

「ん…? なにが?」

「いや、なんか、今日はちょっと考え事してたみたいだったから」

あかりは笑ってごまかす。「そんなことないよ」

けれど胸の奥では、"本当はある" という言葉がずっと響いていた。


それからの日々も、拓海との時間は穏やかだった。

しかし時折、ふとした瞬間に冴香の声や仕草が蘇る。

あの低くて甘い声、視線を絡めた時に生まれる奇妙な熱、そして「男装しているあなたが好きよ」と囁いたあの夜の記憶。

思い出すたびに胸の奥がざわめき、息が浅くなる。


(どうして…また、こんな気持ちになるんだろう)


拓海といる時の自分は、年相応の女子高生らしく笑い、甘えることもできる。

その姿に嘘はないはずだ。

けれど、冴香といる時のあの自分も、また確かに"本物"だった。

男装をして背筋を伸ばし、言葉遣いが変わり、心の奥に隠れていた自信と高揚が湧き上がる。

そのどちらも、自分であるはずなのに――。


ある夜、ベッドに横たわりながら、あかりは天井を見つめた。

拓海とのLINEが途切れた後も、眠れない。

無意識に引き出しを開け、あの時冴香から渡された名刺を取り出す。

連絡先は書かれていない、ただ名前と、上品なデザインだけのカード。

それでも、その紙片が放つ存在感は、あかりの心を揺らすには十分だった。


「…どっちが、本当の私なんだろう」

呟いた声は、小さく震えていた。

拓海への想いは恋。

けれど冴香に対する感情は、それとは違う…はずなのに、同じくらい心を奪う力を持っている。


次の休日、拓海とデートの約束をしていた。

けれど前日から胸の奥は落ち着かず、デートの最中も笑顔の裏で意識が揺れ動く。

拓海の手の温もりを感じながら、同時に冴香の指先が手の甲に触れた時の感触が蘇ってしまう。


(こんなの、裏切りだ…)

そう思っても、感情は勝手に溢れ出す。

罪悪感と共に、冴香の笑みを思い出すたび、どうしようもなく胸が締め付けられる。


帰り道、拓海が「来週も空いてる?」と笑って聞く。

あかりは「うん」と頷きながら、その答えが本当に自分の望むものなのか、自信が持てなかった。


夜、自室の窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。

あかりは名刺を手に取り、しばらく見つめた後、深く息をつく。

"拓海の隣にいる自分" と "冴香の前に立つ自分"――

二つの心が交差し、どちらが偽りで、どちらが真実なのか、答えはまだ見つからなかった。


そしてその迷いは、次に冴香と会う日を、密かに待ち望んでしまう自分の存在を、静かに肯定していた。