(8)
意識が戻ったのは、どれほどの時間が経った後だったのだろう。
健人はゆっくりとまぶたを持ち上げた。目に飛び込んできたのは、見慣れた教室の天井。白い蛍光灯は消えていて、窓の外から流れ込む月明かりだけが、淡い光を室内に落としていた。
上体を起こそうとした瞬間、ずしりとした温もりが自分の胸にのしかかっていることに気づいた。見下ろすと、美咲が両腕を回し、しっかりと抱きついたまま眠っていた。
彼女の顔は穏やかで、長いまつ毛が月光を受けて淡く輝いている。だがその頬には、涙の跡が乾かぬまま残っていた。
「……美咲」
健人が囁くように呼びかけると、美咲の肩がぴくりと震えた。ゆっくりとまぶたを開け、潤んだ瞳が健人を映す。
次の瞬間、彼女は強く息を吸い込み、声を震わせながら言った。
「……健人くん……本当に……戻ってこられたんだね……」
そう言った途端、堰を切ったように涙が溢れ出した。
美咲は顔を胸に押し付け、声を押し殺すようにして泣き始める。
健人は戸惑った。どう慰めればいいのか分からない。けれど、ただ背中に手を回し、そっと撫でることしかできなかった。
「大丈夫だ……もう、ここにいる」
自分に言い聞かせるような声。それでも美咲は、その言葉に少し安堵したようで、嗚咽を繰り返しながらも次第に呼吸を整えていった。
やがて泣き疲れたのか、美咲は健人の胸に顔を預けたまま、小さな声で言った。
「……ありがとう。健人くんが呼んでくれたから……ちゃんと戻れたんだと思う」
その言葉に胸が熱くなる。だが同時に、健人はふと我に返った。
周囲の空気が妙に静かすぎるのだ。
そっと美咲を支えながら窓の外に目をやる。
そこには、冴え渡る夜空が広がっていた。雲ひとつない空に、満天の星々が瞬き、月は白銀の光を惜しげもなく降り注いでいる。
美しい光景。だが、すぐに違和感が健人を襲った。
――暗い。
街の明かりが一つもない。
校舎の外に続く住宅街の灯りも、遠くに見えるはずの街路灯も、どこにも存在しない。
まるで世界が星と月だけに支配され、他のすべてが取り払われてしまったような、不自然な闇が広がっていた。
「……そんな……」
健人は思わず息を呑んだ。
異変に気づいた美咲が、不安そうに彼の腕を握った。
「健人くん……どうしたの?」
嘘をつくこともできた。けれど、彼女を騙しても仕方がない。
できるだけ落ち着いた声を装いながら、健人は窓の外を指差した。
「……見てごらん。星は見える。でも、それ以外の明かりがどこにもないんだ」
美咲の表情が凍りついた。
窓辺に立ち、彼女も外をのぞく。しばらく黙ったまま星空を見つめた後、唇を震わせた。
「……じゃあ……私たち……二人だけ……?」
その声は恐怖に揺れていた。
健人は言葉を返せなかった。彼自身も愕然としていたのだ。
昼間のように賑やかな教室に戻れたと思った。だが、待っていたのは別の孤独――人の気配が完全に消えた世界。
美咲は目を伏せ、唇を噛み、必死に涙を堪えていた。彼女を再び不安にさせまいと、健人は無理やり笑みを作った。
「……でも、今は外に出るのはやめよう。真っ暗だし、何があるか分からない。危険だ」
美咲は小さく頷いた。その肩はかすかに震えていたが、健人の言葉にすがるような表情を見せた。
健人は教室の隅を探り、非常用の物資を収めた箱を見つけた。中にはいくつかの毛布がしまわれていた。
その一枚を取り出し、窓際に腰を下ろすと、美咲をそっと隣に座らせた。
月明かりの下、二人は一枚の毛布を肩から掛け合う。距離は近く、互いの体温がじんわりと伝わってくる。
美咲は毛布を握りしめたまま、小さな声で呟いた。
「……本当に、これからどうなるんだろうね」
健人は答えられなかった。
だが、美咲の震える手をそっと握り返し、かすかな強さを伝える。
それでも、不安は胸を離れない。
星だけが輝き、街は暗闇に沈み、人の声はどこにもない。
今夜を越えた先に、果たしてどんな朝が訪れるのか。いや、朝というものが再びやって来るのかすら分からない。
美咲の頭が健人の肩に預けられ、彼女の呼吸が次第に落ち着いていく。眠りに落ちていく彼女を見守りながら、健人は暗闇に沈む世界を見つめ続けた。
(……俺が、守らなきゃ……)
そう思った瞬間も、心の奥に潜む不安は消えなかった。
この先、二人に待ち受けているのは救いか、それともさらなる孤独か――。
答えの見えない問いだけが、夜の静けさとともに健人の胸を締めつけ続けた。