帰宅して、制服から私服に着替えた後も、胸の内のざわつきは収まらなかった。
バッグの内ポケットに、硬く四角い感触がある。
あの喫茶店で、あの女性がそっと差し出してきた名刺。
『朱鷺原 冴香(ときはら さえか)』
細くて、艶のある文字。どこか香りすら漂いそうな品のある字体。
その名刺を、机の上にそっと置く。
「かっこいいわね。君みたいな子、なかなかいないわ。」
冴香のあの言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
あの時、あたしはただ、戸惑ってうつむくしかなかった。
でも――あれは本心だったのだろうか。
冗談にしては、目が真剣すぎた。
あたしの“男装”を、初めて「女性」としてじゃなく「人」として評価された気がした。
――ドクン。
心臓が妙な拍動を打つ。
悪いことをしてるわけじゃないのに、罪悪感のような感情が胸をかすめる。
「……拓海……」
ぽつりと、幼なじみの名前をつぶやいた。
今ごろ、家でゲームでもしてるのだろうか。
あたしが、誰かに言い寄られたことなんて、きっと知らない。
でも、あの時――少しだけ、拓海の目が険しかったような気がした。
あたしの笑顔を見て、どこか探るような視線。
わかってる。
あたしは、拓海が好きだ。
彼の不器用な優しさも、時々見せる子供っぽさも、
本当は全部、ちゃんと胸の中にある。
なのに――どうして冴香さんの言葉が、こんなに胸に残ってるの?
男装の自分が「好かれた」という事実。
それは、これまでの“女子”としてのあかりとは別の自分が見られている感覚だった。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「本当のあたしって、どっちなんだろう……」
膝を抱えて、名刺をじっと見つめる。
鏡の中には、男装用のウィッグと服がかかったハンガー。
文化祭で着た、あの服。
ボーイッシュなジャケットに細めのネクタイ、シャツの襟元をラフに開けたあの姿。
あの時、拓海が顔を赤くしたこと、忘れていない。
「……ねえ、あたしは、どっちの自分が好き?」
小さな声で、誰にも聞こえない問いを呟く。
冴香のように、男装した“あかり”に惹かれる人もいる。
でも、拓海は“女の子”としてのあかりを見てくれている……そう信じたい。
だけど――拓海も、あの時の壁ドンには驚いていた。
笑ってたけど、頬は確かに赤かった。
じゃあ、あれは、どんな気持ちだったの?
感情が、まるで糸を絡ませた糸玉のように、ほどけない。
ただ一つ言えるのは――
「誰かに必要とされたいって、思ってたんだ……きっと」
だから、冴香の言葉が心に刺さった。
誰かに「君がいい」と言われたことが、あたしの輪郭を揺らしている。
だけどそれは、「恋」なのか、「憧れ」なのか、あるいは「認められたい」だけなのか――
名刺をそっと、引き出しの奥にしまう。
答えはまだ出ない。
でも、今のままじゃ、拓海に顔向けできない気がする。
少しずつ、自分の気持ちに向き合わなきゃ。
逃げてばかりじゃ、あたしの中の“本当”に辿り着けない。
そう思いながら、あたしはゆっくりベッドに身を沈めた。
胸の鼓動はまだ早いまま、夜の静けさに包まれていく。