テーブルに残された名刺は、仄かに香水の匂いがした。
あかりはその小さな紙片から目を離せずにいた。
「……なんで、置いてくのよ……」
自分でも気づかないほどの声で、つぶやいた。
名刺には流れるような筆記体で女性の名前と、
「何かあったら、いつでもどうぞ」とだけ書かれていた。
番号も、住所もない。まるで秘密の合図のように。
そのとき、トイレから戻ってくる拓海の姿が見えた。
――ヤバい。
反射的に、あかりは名刺をそっとポケットに滑り込ませた。
まるで、何か悪いことをしたような気持ちで。
「戻ったよ~。あれ?なんか顔赤い?」
拓海の声に、心臓が跳ねた。
「えっ?あ、暑いだけ。ちょっと日差し強かったし!」
笑ってごまかしたが、自分でも嘘くさいのはわかっていた。
それでも拓海は、深く詮索することもなく、
「そっか」と言ってグラスに口をつけた。
その優しさが、逆に苦しかった。
拓海にだけは、何でも話せると思ってた。
小さい頃からずっと一緒で、秘密なんてなかった。
でも、今――初めて、隠している。
しかも、それはただの「ナンパされた」ってだけのことじゃない。
男装していた自分が、女性から「惹かれた」と言われたという事実。
それを、拓海にどう伝えればいいかわからなかった。
彼は、あかりの男装をいつも肯定してくれる。
「似合ってる」「かっこいい」って、照れずに言ってくれる。
でも――その拓海に、自分が他人に“異性”として見られているということを言えば、どう思うだろう?
「なあ、あかり。さっき、なんかあった?」
突然の問いに、指がびくっと反応した。
「……なんで?」
「いや、なんとなく。表情固かったから。」
そうやって、何でも見抜こうとする。
そこが、昔から変わらない。
「ほんと、なんでもないってば。」
視線を合わせずに返すと、拓海は少しだけ寂しそうな目をした。
あかりは、その目を見て胸が痛くなる。
彼を傷つけたくない。
でも、この気持ちは――今はまだ、しまっておきたかった。
ポケットの中で、名刺の感触がじんわりと指先に残る。
“これは、私だけの秘密。”
そう思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。