日曜日, 11月 09, 2025

第六話 秘密の名刺

 テーブルに残された名刺は、仄かに香水の匂いがした。

あかりはその小さな紙片から目を離せずにいた。


「……なんで、置いてくのよ……」


自分でも気づかないほどの声で、つぶやいた。


名刺には流れるような筆記体で女性の名前と、

「何かあったら、いつでもどうぞ」とだけ書かれていた。

番号も、住所もない。まるで秘密の合図のように。


そのとき、トイレから戻ってくる拓海の姿が見えた。


――ヤバい。


反射的に、あかりは名刺をそっとポケットに滑り込ませた。

まるで、何か悪いことをしたような気持ちで。


「戻ったよ~。あれ?なんか顔赤い?」


拓海の声に、心臓が跳ねた。


「えっ?あ、暑いだけ。ちょっと日差し強かったし!」


笑ってごまかしたが、自分でも嘘くさいのはわかっていた。

それでも拓海は、深く詮索することもなく、

「そっか」と言ってグラスに口をつけた。


その優しさが、逆に苦しかった。


拓海にだけは、何でも話せると思ってた。

小さい頃からずっと一緒で、秘密なんてなかった。

でも、今――初めて、隠している。


しかも、それはただの「ナンパされた」ってだけのことじゃない。

男装していた自分が、女性から「惹かれた」と言われたという事実。

それを、拓海にどう伝えればいいかわからなかった。


彼は、あかりの男装をいつも肯定してくれる。

「似合ってる」「かっこいい」って、照れずに言ってくれる。

でも――その拓海に、自分が他人に“異性”として見られているということを言えば、どう思うだろう?


「なあ、あかり。さっき、なんかあった?」


突然の問いに、指がびくっと反応した。


「……なんで?」


「いや、なんとなく。表情固かったから。」


そうやって、何でも見抜こうとする。

そこが、昔から変わらない。


「ほんと、なんでもないってば。」


視線を合わせずに返すと、拓海は少しだけ寂しそうな目をした。

あかりは、その目を見て胸が痛くなる。


彼を傷つけたくない。

でも、この気持ちは――今はまだ、しまっておきたかった。


ポケットの中で、名刺の感触がじんわりと指先に残る。


“これは、私だけの秘密。”


そう思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。