その日、あかりは拓海と一緒に映画を観てから、ショッピングモールを歩いた。
楽しい時間だった。
けれど、心の奥にはずっと、ある影が張り付いていた。
――冴香さんのことだ。
あの日以来、彼女からは何の連絡もなかった。
そもそも名刺には連絡先すら書かれていなかったし、私自身も自分の番号やアドレスを教えたわけではない。
それでも、いつかまた会える気がして――名刺はまだ、机の引き出しにしまってある。
夕暮れ、拓海と駅で別れたあと、私は一人、家までの道を歩いていた。
人通りの少ない並木道。
街灯がぽつりぽつりと灯りはじめる。
気温は少し冷えてきて、腕をさすろうとした時――声がした。
「また会えたわね、あかりちゃん」
振り返ると、そこにいたのは冴香だった。
時間が止まったように感じた。
「……どうして……ここが……?」
驚きと戸惑いで声がうわずる。
でも、冴香さんは微笑むだけだった。
「あなたのこと、少し調べたの。ごめんなさいね。名刺に連絡先、書き忘れていたでしょう?」
冗談めかして言いながらも、その目は真剣だった。
私は否応なく鼓動が早まるのを感じた。
「少しだけ、話せるかしら?」
「……はい」
気づけば、私は自然に頷いていた。
そのまま、近くの静かなカフェに入った。
窓際の席に座り、ホットティーを注文する。
以前と同じジャスミンの香りが、湯気の向こうに漂う。
「あなたに、また会いたかった」
冴香さんがそう言った瞬間、心が跳ねた。
「……私も、会いたいって思ってました」
正直な気持ちだった。
「でも、私……混乱してて。自分が何に惹かれてるのか、よくわからなくて」
「それでいいのよ」
冴香さんの声は、あくまで穏やかだった。
「気持ちは、ひとつに決めなきゃいけないものじゃない。大事なのは、あなたがあなたでいられる場所を、ちゃんと選べること」
私はその言葉に目を伏せた。
冴香さんといると、自分の心が、どこまでも裸になる。
「ねえ、あかりちゃん。今日のあなたの服、すごく似合ってるわ」
ふと、冴香さんが言った。
「男装してる姿、とても自然よ。無理してる感じがしない」
私は顔が熱くなるのを感じた。
褒められたことへの照れなのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。
「男装してる時の自分って……少し、強くなれる気がするんです」
ぽつりと呟いた。
「そうね。外見が変わると、心も自由になれる。私もそうだった」
冴香さんが語る過去の話――誰にも言えなかった自分、押し殺してきた思い。
そのすべてに私は引き込まれた。
そして、気づけば時刻は夜に差しかかっていた。
「そろそろ……帰らなきゃ」
私は言った。
冴香さんは、ふと立ち上がった。
「じゃあ、私が送るわ。家まで」
「えっ……でも……」
「心配なの。女の子を夜道に一人で帰らせるなんてできない」
そう言って冴香さんは、冗談っぽくウインクした。
……いや、私は今「女の子」に見えてる?
――なんて、頭の片隅で思ったけど、それを言葉にする余裕はなかった。
外に出ると、冷たい風が吹いていた。
その瞬間、冴香さんがさっと自分のコートを脱いで、私の肩にかけた。
「風邪ひくと困るから」
「……ありがとうございます」
肩にかかった布の重みと、そこに染み込んだ冴香さんの香水の匂いが、胸をきゅっと締めつける。
「……あかりちゃん」
家の前まで着いたとき、冴香さんが小さく呟いた。
「あなたに、ちゃんと伝えたい。私は、あなたに特別な気持ちを持ってる。
たとえあなたが誰かを好きでも、あなたがどんな姿でも――私は、あなた自身に惹かれてる」
私は息を呑んだ。
胸が、痛いくらいに高鳴っていた。
拒絶の言葉は、出てこなかった。
それどころか、口の端が、自然に笑みに変わるのを感じた。
「……ありがとうございます」
私の声は、少し震えていた。
でも、それでも、ちゃんと目を見て答えた。
この時、私は確かに――冴香さんの言葉に、心を動かされていた。