日曜日, 12月 07, 2025

第九話 もうひとりの私へ

 拓海と別れたのは、夕方近く。

駅の改札前で「じゃあな」と手を振る彼に、私も笑顔で応えたけれど、胸の奥はまだざわざわしていた。


男装してる自分。

女の子のままの自分。

どっちも嘘じゃないのに、どっちかを選ばなきゃいけないような気がしてしまう。

拓海は、どっちでも「お前はお前」だって言ってくれた。

でも、自分ではまだ答えが出ない。


少し歩いて、人気のない公園の前で足を止めた。

ベンチに腰を下ろし、バッグの中の名刺を取り出して指でなぞる。

あの妖艶な女性――冴香さん。

「君みたいな子、なかなかいない」

その言葉が、何度も頭をよぎる。


その時だった。


「やっぱり、会えた」


聞き慣れた、低く艶やかな声が耳に届いた。

驚いて顔を上げると、そこには黒いサングラスをかけた冴香さんが、ベージュのロングコート姿で立っていた。


「少し、いいかしら?」


言葉より先に、心臓が跳ねる。

まるで映画のワンシーンみたいに現れたその姿は、現実離れしていて――けれど、確かに目の前にいた。


「え……あの……」


「驚かせちゃったかしら? でも、君にもう一度会いたくて、来てしまったの」


サングラスを外した冴香さんの瞳は、まっすぐに私を見ていた。

視線の熱に、思わず目を逸らしそうになる。


「少し、お茶でもしない? 駅の近くに、いいラウンジがあるの。静かで話しやすいのよ」


一瞬、断ろうとした。

でも言葉は喉の奥で止まった。


このまま断ったら、私はずっと逃げてしまう気がした。

自分の中の何かから、目を逸らしたままになる気がして――。


私は小さく頷いた。


「……はい。少しだけなら」


冴香さんは、嬉しそうに口元を緩めた。


駅の近くのティーホテルのラウンジは、静かで落ち着いた空間だった。

高い天井と、柔らかな灯り。

テーブルの上には小さなランプが置かれていて、冴香さんの横顔をやさしく照らしていた。


「今日はお友達と?」


「……はい。幼なじみで」


「あら、いいわね。彼、少し嫉妬してたかしら?」


冴香さんは冗談めかして笑った。

でもその目は、探るように私の表情を見ていた。


「嫉妬って……そんな……」


「でも、あなたが男装してること、どう思ってるのかしら。ちゃんと、理解してくれてる?」


言葉に詰まった。

拓海の言葉は嬉しかった。けれど、まだ“理解”されているとは、言い切れない気もした。


「正直に言っていいかしら?」


冴香さんが少し身を乗り出した。


「私は、男装してるあなたの姿を見たとき、雷に打たれたみたいな衝撃を受けたの。美しさと、強さと、でもどこか壊れそうな儚さ……すべてが混ざっていた」


言葉が、胸の奥を揺らす。

拓海とは違う種類の眼差し。

けれど、その眼差しもまた、確かに私を見てくれている気がした。


「あなたのことを、もっと知りたいと思った。男装が好きとか、そんな表面的なことじゃなくて、あなた自身を」


「……私を?」


「ええ。あなたは今、きっと自分の中の“もう一人”の自分と出会ってしまったのよ。私は、その人の背中をそっと押したいだけ」


ラウンジの中で流れるピアノのBGMが、まるで時間を止めているようだった。

私は紅茶に口をつけながら、自分の心が静かに熱を帯びていくのを感じていた。


「……私、自分でもよくわからないんです。男装してる自分が好きなのか、誰かに認められるのが嬉しいのか……」


「わからないままで、いいの。答えはすぐに出す必要なんてないわ。でも、私なら……その迷いごと、抱きしめられる」


心臓が跳ねた。

まるで恋人に言われたみたいに、心が温かくもざわついていた。


そして私は――静かに息を吸って、頷いた。


「もう少しだけ……一緒にいてもいいですか?」


冴香さんは微笑んで、私の手の上にそっと自分の手を重ねた。