シティーホテルのラウンジで過ごした時間は、まるで夢の中のようだった。
冴香さんは、言葉の端々に柔らかさと余裕を纏っていて、それでいて私の心のひだにそっと触れてくるような、不思議な魅力があった。
私が迷っていることも、言葉にできない思いも、全部察してくれるような眼差し。
「このあと、少しだけ散歩しない?」
紅茶を飲み終えたあと、冴香さんがそう言った。
私は頷いた。心が自然に「もっと一緒にいたい」と言っていた。
ホテルを出て、夕暮れに染まりかけた街を歩く。
季節の風が髪をなでる。
冴香さんは私の歩幅に合わせて、隣を歩いてくれた。
「……私、最近までずっと、“普通”でいることが正しいんだって思ってました」
ふと、自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。
「女の子らしくして、誰かの期待に応えるのが、当たり前だって……でも、男装してみたら、すごく落ち着いて。でも同時に、怖くなったんです。これが本当の私だったら、今までの私は何だったんだろうって……」
冴香さんは立ち止まり、私を見つめた。
「その感覚、すごくよく分かるわ」
彼女の声は、静かなのに力強い。
「私も若い頃、自分の中にある“普通じゃない部分”を隠して生きてきた。けれどある日気づいたの。隠しても消えないものなら、それは“本物”だって」
“本物”という言葉が、胸に刺さる。
私の中にある、この揺れる感情も、誰かに認められたい気持ちも、全部……本物?
「あなたの中にあるそのままを、私は素敵だと思うわ」
冴香さんが言った。
その言葉が、心をほどくように響いた。
そして――彼女はそっと、私の頬に触れた。
指先が、優しく肌をなぞる。
「……触れてもいい?」
一瞬、答えられなかった。
でも私は、目を逸らさずに、小さく頷いた。
冴香さんの手が、私の頬から首筋へ、そして髪を優しく撫でた。
誰かにこんなふうに触れられるのは初めてで、でも不思議と嫌じゃなかった。
むしろ――心の奥にあった何かが、やっと見つけられたような感覚がした。
そのまま、静かに距離が縮まって、唇が触れそうになる。
だけど、その瞬間――私の中で、拓海の顔がよぎった。
いつも笑ってくれる拓海。
一緒に帰った放課後。
私が男装を始めたことを、何も言わずに受け止めてくれた彼。
私は――誰を見ているんだろう?
冴香さんの目を見つめながら、心の中で問いかけていた。
けれど、冴香さんはそんな私の迷いも察したように、ふっと微笑んで距離を戻した。
「ごめんなさい。急ぎすぎたかしら」
「……いえ。違うんです。ただ……私、自分でもよく分からなくて」
「わかるわ」
冴香さんは優しく頷いた。
「心は、すぐに答えを出せるものじゃない。でもね、焦らなくていい。あなたがあなたでいる時間を、私は大切にしたい」
その言葉に、私はほっとした。
目の前の人は、私を追い詰めるんじゃなくて、見守ってくれている。
「今日はありがとう。すごく、心が軽くなりました」
「それはよかった」
冴香さんは、少し淋しげに微笑んだ。
「また、会ってくれる?」
「……はい。私も、もっと知りたいです。自分のこと。そして、冴香さんのことも」
その言葉に、彼女の表情がやわらかくほどけた。
「じゃあ、また連絡するわね。気をつけて帰って」
別れ際、冴香さんは私の手をそっと包むように握ってくれた。
その温もりが、しばらく消えなかった。
歩き出した帰り道。
私はそっと胸に手を当てた。
――私は、誰に惹かれているの?
揺れる心のまま、夜の空を見上げた。