日曜日, 12月 14, 2025

第十話 触れてしまった温度

 シティーホテルのラウンジで過ごした時間は、まるで夢の中のようだった。


冴香さんは、言葉の端々に柔らかさと余裕を纏っていて、それでいて私の心のひだにそっと触れてくるような、不思議な魅力があった。

私が迷っていることも、言葉にできない思いも、全部察してくれるような眼差し。


「このあと、少しだけ散歩しない?」

紅茶を飲み終えたあと、冴香さんがそう言った。


私は頷いた。心が自然に「もっと一緒にいたい」と言っていた。


ホテルを出て、夕暮れに染まりかけた街を歩く。

季節の風が髪をなでる。

冴香さんは私の歩幅に合わせて、隣を歩いてくれた。


「……私、最近までずっと、“普通”でいることが正しいんだって思ってました」

ふと、自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。


「女の子らしくして、誰かの期待に応えるのが、当たり前だって……でも、男装してみたら、すごく落ち着いて。でも同時に、怖くなったんです。これが本当の私だったら、今までの私は何だったんだろうって……」


冴香さんは立ち止まり、私を見つめた。


「その感覚、すごくよく分かるわ」

彼女の声は、静かなのに力強い。


「私も若い頃、自分の中にある“普通じゃない部分”を隠して生きてきた。けれどある日気づいたの。隠しても消えないものなら、それは“本物”だって」


“本物”という言葉が、胸に刺さる。

私の中にある、この揺れる感情も、誰かに認められたい気持ちも、全部……本物?


「あなたの中にあるそのままを、私は素敵だと思うわ」

冴香さんが言った。


その言葉が、心をほどくように響いた。


そして――彼女はそっと、私の頬に触れた。

指先が、優しく肌をなぞる。


「……触れてもいい?」


一瞬、答えられなかった。

でも私は、目を逸らさずに、小さく頷いた。


冴香さんの手が、私の頬から首筋へ、そして髪を優しく撫でた。

誰かにこんなふうに触れられるのは初めてで、でも不思議と嫌じゃなかった。


むしろ――心の奥にあった何かが、やっと見つけられたような感覚がした。


そのまま、静かに距離が縮まって、唇が触れそうになる。


だけど、その瞬間――私の中で、拓海の顔がよぎった。


いつも笑ってくれる拓海。

一緒に帰った放課後。

私が男装を始めたことを、何も言わずに受け止めてくれた彼。


私は――誰を見ているんだろう?


冴香さんの目を見つめながら、心の中で問いかけていた。


けれど、冴香さんはそんな私の迷いも察したように、ふっと微笑んで距離を戻した。


「ごめんなさい。急ぎすぎたかしら」


「……いえ。違うんです。ただ……私、自分でもよく分からなくて」


「わかるわ」

冴香さんは優しく頷いた。


「心は、すぐに答えを出せるものじゃない。でもね、焦らなくていい。あなたがあなたでいる時間を、私は大切にしたい」


その言葉に、私はほっとした。

目の前の人は、私を追い詰めるんじゃなくて、見守ってくれている。


「今日はありがとう。すごく、心が軽くなりました」


「それはよかった」

冴香さんは、少し淋しげに微笑んだ。


「また、会ってくれる?」


「……はい。私も、もっと知りたいです。自分のこと。そして、冴香さんのことも」


その言葉に、彼女の表情がやわらかくほどけた。


「じゃあ、また連絡するわね。気をつけて帰って」


別れ際、冴香さんは私の手をそっと包むように握ってくれた。

その温もりが、しばらく消えなかった。


歩き出した帰り道。

私はそっと胸に手を当てた。


――私は、誰に惹かれているの?


揺れる心のまま、夜の空を見上げた。