日曜日, 4月 12, 2026

感覚と安堵

 (3)

 夕暮れの昇降口前。橙色の光に包まれた空間で、健人は言葉を探していた。

 美咲の「これからも私のことを見ててほしい」という告白が、頭の中で何度も反響していた。


 心臓はまだ早鐘を打っている。頭の中で「どう答える?」という問いだけがぐるぐると回り、言葉が形を成さない。


(見てほしいって……そんなこと、言われるなんて思ってもなかった。どう返せばいいんだ……? 本気で言ってるのか? それとも冗談?)


 逡巡する健人の沈黙が、時間をゆっくりと引き延ばす。

 その沈黙に気づいたのか、美咲の表情が徐々に曇っていく。最初は目を伏せ、やがて唇を噛み、そして不安げに彼を見上げた。


「……やっぱり、変だよね。こんなこと言っても……気持ち悪いって思ったでしょ?」


 小さな声。それはまるで自分を守るために先回りして謝っているかのようだった。

 健人の胸が強く締めつけられる。


 確かに驚いたし、すぐに返事ができなかったのは事実だ。けれど、気持ち悪いなんて一度も思わなかった。むしろ――彼女がそんな繊細な感覚を抱えながら、それでも勇気を出して打ち明けてくれたことに、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


(このまま黙っていたら、美咲は……俺の気持ちを誤解したまま離れていってしまう)


 そう思った瞬間、健人の中で迷いが消えた。


「……違う」


 小さく絞り出した声に、美咲が顔を上げる。

 健人は強く息を吸い込み、夕日の赤に照らされた彼女を正面から見つめた。


「俺、気持ち悪いなんて思ってない。むしろ……俺でよければ、これからもずっと見てる」


 自分でも驚くほどはっきりとした声だった。言いながら頬が熱くなる。

 だが、美咲は一瞬目を丸くした後、ふっと力を抜くように笑った。その笑みは安堵に満ちていて、肩の力が抜けたように見えた。


「……ありがとう。ほんとに、よかった」


 胸に手を当て、ほっとしたように息をつく美咲。その姿に、健人はどこか救われるような気持ちになった。

 彼女の中で、自分の視線が意味を持っていた。その事実が、不思議な誇らしさを伴って胸に広がっていく。


 しばらくして、美咲は少し照れたように笑みを浮かべ、健人を見上げた。


「じゃあ……また明日も、私のこと、ちゃんと見ててね」


 それだけ言うと、カバンを軽く持ち直し、昇降口を抜けて校門の方へ歩き出す。制服のスカートが夕風に揺れ、やがて校舎の影に溶けていった。


 取り残された健人は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。

 胸の鼓動はまだ収まらず、さっきまで交わしたやり取りが頭の中で繰り返される。


(……俺、今、なんて答えたんだ? ずっと見てるって……それってどういう意味だ? 俺は……彼女にどう思われてるんだ?)


 考えれば考えるほど答えは出ない。ただ一つはっきりしているのは、美咲が去り際に見せた安堵の笑みが、頭から離れないということだった。


 西日の残光が次第に夜の帳に溶けていく。昇降口のガラスに映った自分の顔は、どこか呆然としていて、けれど少しだけ笑みを浮かべているようにも見えた。


 健人はカバンを持ち直し、ゆっくりと歩き出す。

 何が起きたのかまだ整理できないまま、けれど明日、美咲と顔を合わせることが楽しみで仕方なくなっていた。