(5)
翌朝。健人はいつもより早く教室に入った。
席にカバンを置いて、窓の外を眺める。校庭に吹く風が、朝の空気を少し冷たく感じさせた。
(……美咲、今日はどんな顔で来るかな)
自然にそんなことを考えていた。昨日の夜は結局ほとんど勉強に集中できなかった。思い浮かぶのは美咲の微笑みや横顔ばかり。だから今朝は、彼女に会うのがひどく楽しみだった。
けれど、待てども待てども、美咲は姿を現さなかった。
いつもならチャイムが鳴る数分前には教室に入ってくるはずだ。友達に軽く挨拶し、隣の席に座ってノートを開く――そんな当たり前の光景を、健人は無意識に待ち望んでいた。
だが、始業のチャイムが鳴っても、美咲は来なかった。
(休み……なのか? でも、体調崩したとか聞いてないけど)
違和感が胸に広がる。心のどこかで「今日は会えないのか」と落胆しながらも、健人は美咲のいない隣の席に腰を下ろした。机の上には誰のノートも置かれていない。椅子は冷たく、そこに人の温もりがあったことさえ幻のように思えた。
担任が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。
出欠を取る声が響く。生徒の名前が一人ずつ呼ばれ、返事が返っていく。健人は当然のように「佐伯」という名前を待っていた。
けれど――いつまで経っても呼ばれなかった。
隣の席は空いているのに、担任はその席が初めから存在しないかのように出欠を進め、最後まで「佐伯美咲」の名は口にしなかった。
(……どういうことだ?)
健人の胸がざわついた。聞き間違いだろうか。それとも先生が忘れた? だが、名簿を見ながら淡々と読み上げていたあの様子に、抜け落ちがあるようには思えなかった。
ホームルームが終わったあと、健人は勇気を出して隣の友人に軽く尋ねてみた。
「なあ、佐伯って今日休みなのかな」
すると友人は怪訝そうな顔をしてから、冗談めかして笑った。
「誰だよそれ? クラスにそんなやついねえだろ」
「……え?」
健人は思わず声を詰まらせた。だが友人は真剣ではなく、本気でからかっている様子だった。健人は苦笑いを作り、「ああ、冗談だよ」と取り繕った。
だが胸の中では、不気味な違和感が広がっていく。
(なんだよ、それ……いない? どういう意味だ?)
それからの授業は、ほとんど耳に入らなかった。黒板の文字も、先生の声も、すべて上滑りしていく。頭の中にあるのはただ一つ――隣に座っていた美咲の存在が、まるで誰からも認識されていないという事実だった。
昼休みになっても、放課後になっても、美咲は現れなかった。
誰もそのことを気にしていない。まるで最初から彼女など存在しなかったかのように、クラスメイトたちは笑い、話し、いつも通りの時間を過ごしていた。
健人は下校の時間になっても帰る気になれなかった。
夕暮れの光が差し込む誰もいない教室で、美咲が座っていたはずの椅子を見つめる。そこには何の痕跡もない。ただの空席。だが健人には、昨日まで確かに彼女がここにいた記憶が残っている。
(美咲……どうなってるんだよ。昨日まで普通に隣に座ってたじゃないか……)
胸の奥が不安と恐怖で締め付けられる。
本当に彼女は存在していたのか? 自分の見ていたものは、ただの幻覚だったのか? そんな疑念が頭をよぎる。
健人は机に手を置き、深くうつむいた。
耳の奥で、昨日まで聞いていた彼女の笑い声や小さな呟きが反響する。忘れられるはずがない。幻だなんて、信じられない。
その時――。
「……健人くん」
不意に背後から、自分を呼ぶ声が聞こえた。
心臓が跳ね上がる。耳に届いたその声は、間違いなく美咲のものだった。
慌てて振り返ろうとした瞬間、全身の毛穴が開くような感覚が走る。
(……今の、ほんとに……美咲?)
教室には誰もいないはずだった。沈みゆく夕日の光だけが、机と椅子を赤く染めている。
だが確かに、すぐ背後で呼ばれた。
健人は息を呑み、ゆっくりと振り返った――。