(2)
あの日以来、健人は授業中に自然と隣の席へ視線を送るようになっていた。美咲の表情や仕草――髪を耳にかける動き、ノートに細かな字を並べる真剣な横顔、時折小さくため息をつく姿。その一つひとつに、これまで気づきもしなかった魅力が隠れているように思えてならなかった。
翌日からは、彼女が教室に入ってくる時間や席に座る瞬間すら気になっていた。無意識のうちに視線がそちらへ向かい、慌てて逸らすこともしばしばだった。友達に「何見てんの?」と茶化されそうになると、健人は必死にごまかした。
休み時間、美咲が友人と話している時の柔らかな笑い声が耳に届く。体育の後、額に浮かぶ汗をハンカチで拭う姿が妙に目に残る。何気ない仕草ばかりなのに、心の中に静かに波紋を広げていく。
「……俺、なんでこんなに気にしてるんだろ」
自分でも答えの出ない疑問を抱えながらも、視線は止められなかった。
そして数日後の放課後。西日に照らされた廊下を、健人は友人たちと別れて一人で歩いていた。カバンの中から聞こえる教科書の擦れる音と、窓から差し込む橙色の光。外はまだ蒸し暑く、蝉の声が続いている。
階段を降り、昇降口へ向かおうとしたその時。
「ねえ、健人くん」
不意に背後から名前を呼ばれ、足が止まった。振り返ると、そこには美咲が立っていた。制服のリボンを指先で軽く整えながら、少し照れたような笑顔を浮かべている。
「……佐伯?」
「うん。ちょっと、いい?」
胸が一気に熱くなるのを感じながら、健人は小さくうなずいた。何を言われるのかは分からない。ただ確かなのは、自分が彼女の一言に心を大きく揺さぶられているということだった。
橙色の夕日が二人の影を長く伸ばし、静かな校舎に包み込む。健人の鼓動は、もう隠しようもなく速くなっていた。
昇降口を出ると、夕暮れの光が校庭を淡く染めていた。部活動に向かう生徒たちの声やボールの音が遠くに響いている。二人きりになった静けさの中、美咲はほんの少しうつむきながら口を開いた。
「……ねえ、健人くん」
呼び止められただけでも心臓が跳ねていたのに、さらに名指しされ、健人は返事が遅れてしまった。
「な、なに?」
「最近ね、ずっと気になってたことがあるの」
美咲は歩みを止め、並んでいた距離を半歩だけ詰めた。健人は急に近くなった彼女の存在に喉が乾くのを感じる。夕日のオレンジ色が、美咲の頬をやわらかく染めていた。
「健人くん……私のこと、見てるよね?」
その問いかけに、一瞬時が止まった。頭の中で「違う」と否定する言葉がよぎるが、同時にそれを言えば嘘になることもわかっていた。健人は視線を泳がせたまま答えられずにいると、美咲は小さく息を吐き、静かに続けた。
「……私ね、人の視線が当たると、体のいろんなところがチリチリするの。肩とか、背中とか……じんわり熱くて、気持ち悪くなるの」
思いがけない告白に、健人は驚いて彼女を見た。美咲はどこか恥ずかしそうに、それでも真剣な目で話していた。
「小さい頃からそうなの。みんなは気にしないんだろうけど、私だけはずっと視線を感じちゃう。クラスの子たちが私を見てると、それだけで苦しくなる。……でもね」
そこで言葉を区切り、美咲は健人を真っ直ぐに見つめた。瞳がわずかに揺れているのがわかる。
「健人くんの視線だけは、違うの」
「……違う?」
「うん。健人くんに見られてると、耳とか頬とかに当たって、熱さじゃなくて……あったかいの。ふわっと包まれるみたいで、不思議なくらい嫌じゃない。それどころかね、健人くんが見てくれてる間は、他の人の視線が全然気にならなくなるの」
健人の胸が大きく跳ねた。思わず息を呑む。まるで秘密を打ち明けるように、美咲は続ける。
「だから……これからも、私のこと、見ててほしい」
風が二人の間をすり抜け、制服の裾を揺らす。健人は言葉を失ったまま、美咲の横顔を見た。夕日の光に照らされた頬は、どこか緊張で赤みを帯びているように見える。
心臓が、今までになく早く打っている。頭の中では「どう答える?」という声がぐるぐる回り続けていた。
(俺が……ずっと見てていいってこと? 本当に?)
これまで「ただ隣にいるから気になっている」と自分に言い訳してきた。けれど、美咲にとって自分の視線が意味を持っていたなんて――想像もしなかった。
健人は無意識に口を開きかけて、すぐに閉じた。何を言えば正解なのかわからない。ただ「わかった」と軽く答えるのはあまりに軽率に思えた。逆に「できない」と突き放すこともできない。
視線の先で、美咲は少し不安げに健人を見つめている。その瞳には、「拒絶されたらどうしよう」という揺れが見えて、健人の胸を締め付けた。
(どうすれば……)
夕日の光がだんだん赤みを増していく。グラウンドの喧騒は遠く、二人の周囲だけが異空間のように静かだった。健人は自分の手のひらに汗が滲むのを感じ、深く息を吸った。
「……」
言葉が喉の奥に詰まる。言いたいことはあるのに、声にできない。彼女の気持ちにどう応えればいいのか――まだ結論は出せない。ただ一つだけ確かなのは、もう美咲の存在を意識しすぎて、目を逸らすことなんてできないということだった。
胸の鼓動が、耳の奥で響いている。
(俺……どう答えたらいいんだ……)
美咲のまっすぐな視線を受け止めながら、健人は自分の中に生まれた揺らぎを必死に押しとどめていた。