(16)
美咲の腕に抱かれたままの余韻からようやく解放され、健人はゆっくりと上体を起こした。
窓の外は相変わらず暗く、月明かりだけが頼りだった。外の街並みは確かに見覚えがある住宅街なのに、やはり家の灯りも人影も一切なく、不自然な静けさが漂っている。
そんな中で、美咲がぽつりと呟いた。
「……お母さんが、家にいるかもしれない」
その声には期待と不安が入り混じっていた。彼女にとって母の存在は、きっとこの異様な世界から救い出してくれる拠り所なのだろう。
「部屋を出て、確かめてみたいの」
そう言って美咲は立ち上がり、部屋のスイッチに手を伸ばした。カチリと押す音が響いたが、部屋は暗いままだった。
「……つかない?」
美咲が小さく首をかしげる。
健人も試しにもう一度押してみたが、結果は同じ。電気は沈黙を保ち、室内には月明かりが細く差し込むのみだった。
「やっぱり……停電してるみたいだ」
「でも、私は自分の家の中だし、廊下も階段もわかるから大丈夫」
「いや、暗い中で歩き回るのは危ないよ」
健人は思わず止めようとした。だが、美咲はそれ以上に強い決意を宿した瞳を向けてきた。
「……どうしても確かめたいの。もし本当にお母さんがいなかったら、耐えられないから」
その言葉に、健人は胸の奥を締め付けられるように感じた。
不安を必死に押し隠している彼女を、これ以上放ってはおけない。
「わかった。一緒に行こう」
健人がそう答えると、美咲は小さく頷いた。
二人は部屋のドアを静かに開けた。
軋む蝶番の音がやけに大きく響き、真っ暗な廊下が目の前に広がった。
窓の隙間から差し込む月明かりが、床板の一部をぼんやり照らすだけで、先の見通しはきかない。
美咲は躊躇うことなく一歩踏み出し、健人もすぐに後を追った。
手探りで壁に触れながら進むと、やがて階段の上に辿り着く。
下の方には、わずかに月明かりが射し込んでいるのが見えた。
健人は思わず唾を飲み込み、手すりを掴んでゆっくりと足を下ろす。木の段がきしむ音が静まり返った家の中に響き、二人の鼓動を余計に高鳴らせた。
一歩、また一歩。
美咲の肩越しに、健人は彼女が小さく震えているのを感じ取った。
やっと一階に降り立ち、二人は廊下を進んでリビングへ続くドアの前に立った。
美咲は小さく深呼吸し、扉に手を掛ける。
「……開けるね」
ギィィと鈍い音を立てながら扉が開く。
月明かりが差し込むリビングには、見慣れた家具が静かに佇んでいた。ソファ、テーブル、テレビ台。けれどそこに人影はなく、生活音も気配もまるで存在しなかった。
「……誰もいない」
美咲の声が震える。
健人も台所を見回した。食器棚も冷蔵庫も、すべてそのままなのに、生きた気配だけがごっそりと消えている。
一体、どこへ消えてしまったのか。疑問と不安が押し寄せ、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「お母さん……どこに行っちゃったんだろう……」
美咲の呟きは、闇に吸い込まれていった。
その時だった。
ふいに視界の端で、何かが揺らめいた。
健人は反射的に顔を向ける。
リビングの隣、引き戸で仕切られた和室。
その隙間から、青白い光がかすかに漏れ出していた。
まるで燐光のように揺れ、呼吸をするように明滅している。
「……見える?」
健人が小声で尋ねる。
美咲も固まったように隣室を見つめ、やがて小さく頷いた。
「うん……青い光……」
ふたりの心臓が同時に高鳴った。
それは単なる月明かりでも、電化製品のランプでもない。
説明のつかない、不気味で幻想的な光。
沈黙が落ち、ただ二人の呼吸と鼓動だけが響いていた。
健人はごくりと喉を鳴らす。
「……行って、みるか」
その声には自分自身を奮い立たせるような震えが混じっていた。
美咲は唇を噛みしめたまま、それでも小さく頷いた。
和室の奥から、青い燐光はなおもゆらめいている。
二人の緊張は限界まで高まり、次の瞬間へと心を備えていた。