日曜日, 6月 07, 2026

不安と視線

 (11)

健人はパンの残りを机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。

 売店の中をもう一度見回す。


 ガラス張りのショーケースには、まだ誰かが買うのを待っているかのようにパンが整列している。

 壁には校内でよく見かける、縦に長い姿見の鏡がかけられていた。

 けれど、そこに映っているのは自分と美咲だけ。他に影も人影もない。


 息を潜めるようにして周囲を探ったが、やはり何も見つからなかった。


 その間、美咲はじっと背中を押さえるようにして座っていた。やがて小さく息を吐き、顔を上げる。

「……今、消えた」

「消えた?」

「うん……背中の温かさ。さっきまでずっとあったのに、健人くんが立ち上がって周りを見始めたら、すっと消えちゃった」


 健人は眉をひそめた。

「じゃあ……やっぱり何かの視線だったのか? それとも――」

「分からない。でも、あれは……痛い視線じゃなかった」


 健人は思わず息を呑んだ。

「じゃあ、俺が見た時と同じ……?」


 美咲は少し戸惑うように頷いた。

「そう。あの時みたいに、じんわり温かくて、安心するような感じだった」

「でも、俺が見てたのは美咲の顔や横顔だぞ。背中じゃない」


 健人の言葉に、美咲はわずかに目を伏せる。唇をかみ、ためらうように言葉を選んだ。

「……あのね、私……視線が当たる場所、分かるの」


「場所が……分かる?」

「うん。たとえば、耳とか頬とかに当たってるって、はっきり分かる。……他の人の視線も全部」


 その声は小さく、どこか恥ずかしさを含んでいた。

 健人は思わず身を乗り出す。

「じゃあ……さっきの背中に感じた温かさも?」

「そう……でも、誰が見てるのかは分からなかった。だから余計に怖かったの」


 美咲は自分の肩を抱くようにして言った。

 健人はしばし沈黙した後、恐る恐る聞いてみた。

「……なあ、美咲。じゃあ、他の人の視線って……全部分かるのか?」


 美咲は顔を赤らめ、俯いた。

「……分かる。だから……イヤなんだ。他の人の視線って、胸とか……お尻とか……そういうところに向けられるのが多いから。見られるたびにそこがじりじり熱くて、気持ち悪くて……一日中、体のあちこちがチリチリするの」


 その告白は、健人にとって衝撃だった。

 彼女が普段どれだけ耐えてきたのかを思うと、胸が痛んだ。


 だが次の瞬間、美咲はちらりと健人を見て、かすかに笑った。

「でもね……健人くんの視線は違う。身体じゃなくて……顔とか、耳とかに当たるから。だから、あの時みたいに温かく感じるんだよ」


 健人の鼓動が跳ね上がった。

 思わず視線を逸らしそうになったが、美咲が真剣に見つめ返してくるので、逃げられなかった。


「……俺の視線、そんなに分かるのか」

「うん……全部」


 美咲は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。

「だから……昨日も、盗み見してるの、気づいてた」


 その瞬間、健人の耳まで赤くなった。

 盗み見していたことを自覚していたが、実際に本人に指摘されると恥ずかしさで胸が詰まる。


「そ、それは……」

 言葉を探す健人を見て、美咲はくすりと笑った。

「でも……イヤじゃなかったよ。むしろ……守られてるみたいで安心した」


 その笑顔に、健人は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 だが同時に、背中に感じた温かさの正体が分からない不安も残る。


 もし本当に自分以外の視線なら――それは一体、誰のものなのか。


 二人は言葉を失い、売店の中に静寂が戻った。

 パンの甘い香りはまだ漂っているのに、空気は妙に冷たく、重く感じられた。


 健人の心臓は、ドキドキと早鐘を打ちながらも、胸の奥で小さなざわめきを拭えずにいた。