日曜日, 10月 04, 2026

安らぎと気配

 (28)

美咲が安らかな寝息を立て始めてから、健人はしばらくの間その寝顔を見守っていた。隣に座っている綾乃もまた、娘の頬にかかった髪をそっと直しながら、母親らしい優しいまなざしを注ぎ続けていた。


やがて、綾乃が小さく息をつき、健人に向かって囁く。


「健人くん……ありがとう。私は美咲の傍で休むから、あなたはリビングのソファを使ってちょうだい」


「……分かりました」


健人は深く頷き、音を立てないように静かに立ち上がる。布団にくるまれた美咲は、まだ小さく寝息を立てていて、眉間の緊張もすっかり消えていた。その寝顔にもう一度視線を落とすと、健人はほっと胸をなでおろし、襖を閉めた。


階段を降り、一階のリビングに足を運ぶ。暗がりの中でソファが静かに佇んでいる。健人は上着を脱いで背もたれに掛け、横になった。

天井を見上げながら、先ほどまでの出来事が頭の中で何度も反芻される。


――俺の視線には……何があるんだろう。


思えば、最初に美咲が消えかけた時も、そして綾乃が青い燐光に包まれた時も、ただ必死に「戻って来てくれ」と願い、目を逸らさずに見つめ続けた。それだけで、二人は再びこの世界に立ち戻った。


普通の人間には、そんな力があるはずがない。けれど、美咲も綾乃も確かに「健人の視線」に反応していた。


美咲は……。

あの時、俺を見返して「安心する」って言ってくれた。周囲の人の視線がチリチリと痛いと感じる中で、俺の視線だけは温かく、落ち着けるものだったらしい。


対して、綾乃は……。

彼女は激しいまでの感情に飲み込まれていた。安らぎではなく、胸の奥から込み上げる強い渇望。まるでずっと欲しかった何かを、俺の視線が満たしてしまったかのように――。


「……二人とも、違うものを感じてる」


健人は呟き、腕を額の上に置いた。

視線を通じて伝わるものは、相手が求めているものなのかもしれない。普段の生活で埋められなかった心の欠片を、俺の視線が呼び起こし、与えてしまう……。


美咲には「温もり」。

綾乃には「激情」。


ならば、もし別の人が同じように俺の視線を受けたら……また違う反応を示すのだろうか。考えれば考えるほど答えは見えない。


「……そんな力、俺にはいらない」


思わず口からこぼれ落ちた言葉は、弱々しい響きを持っていた。自分の視線一つで、他人の心を揺さぶり、時に理性をも崩してしまう。そんなものは畏ろしさしかなかった。


けれど――。


「でも……あの二人が、俺のせいで消えなかったなら」


その時だけは、この力を肯定したいと思ってしまう。

もし視線の力がなかったら、美咲も綾乃もこの世界から消え、俺一人だけが取り残されていたのかもしれないのだ。


健人は大きく息を吐き、体を横向きにして目を閉じた。

しかし、胸の奥に渦巻く考えは簡単に収まるものではない。まぶたの裏に浮かぶのは、美咲の安らかな寝顔と、そして綾乃の紅潮した横顔。二人の姿が交互に現れては消え、健人の思考を掻き乱していく。


――俺は、どうすればいい。


その問いに答える声はどこからも聞こえてこない。夜の静けさがリビングを包み込み、時計の秒針だけが規則正しい音を刻んでいた。


しばらくして、健人はようやくまどろみかけていた。思索に疲れた脳が、夢の淵へと落ちかけていたその時だった。


――コトッ。


小さな音が耳を打った。


「……え?」


健人の意識は一瞬で覚醒した。

今のは夢の中の幻聴ではない。確かに、何かが動く音がした。


彼はそっと上体を起こし、呼吸を殺して耳を澄ます。リビングの隣は和室。襖一枚隔てたその向こうから、かすかな物音が響いてきたのだ。


畳に何かが落ちるような、あるいは足音を忍ばせて動くような……微かな気配。


健人の心臓は一気に鼓動を速めた。


「……誰か、いる……?」


呟いた声は自分でも驚くほど小さく、震えていた。

この世界には、美咲と綾乃、そして自分の三人しかいないはずだ。ならば、隣の和室にいるのは一体――。


健人はソファから身を起こし、息を整えながら、静かに和室の襖へと視線を向けた。


闇に沈むその襖は、ただ黙ってそこに立っている。けれど、その向こうに確かに何かの気配が潜んでいる。


健人の背筋に冷たい汗が伝い落ち、手のひらがじっとりと湿った。


――あの向こうにいるのは、誰なんだ。


息を呑み、健人は襖を凝視した。