(33)
健人は突然現れた女性に抱きすくめられ、その冷たくも甘やかな腕から逃れることができなかった。黒いレースの布越しに伝わる体温は、人間のものとはどこか違う、現実感のない温度だった。
胸の奥で心臓が暴れているのに、四肢は凍りついたように動かない。恐怖なのか、あるいは抗えない魅了の力なのか、健人には判断がつかなかった。
そのとき、背後――つまり鏡の中から、もう一人の自分の声が響いた。
ため息まじりの低い声。
「……やれやれ。やはり記憶を失ってしまっているらしいな。約束さえも忘れているとはな」
言葉には諦めと皮肉が入り混じり、それでもどこか期待を含んでいるように聞こえた。
女性は抱きついたまま、ゆるやかに瞳を細めた。ターコイズブルーの透明な光が、一瞬だけ翳りを帯びる。哀しみが宿ったその眼差しは、彼女の言葉を雄弁にしていた。
「……思い出して。お願い……私のことを」
彼女の囁きは、柔らかい羽毛が耳に触れるように優しく、しかしどこか強引に心の奥へと入り込んでくる。健人の視線は自然と彼女の瞳に吸い込まれていった。
そのときだった。
ターコイズの瞳が、ゆらりと色を変え始める。
透き通った水の色が赤い光に染まり、やがて紅蓮の炎のような妖しい輝きとなった。
「……っ!」
健人の呼吸が乱れる。視界の端が歪み、畳の縁も襖の線もぼやけ始める。
和室全体がかすみ、輪郭が波打つように揺らめいた。
同時に、彼女の声が耳からではなく頭の内側に響きはじめる。
――大丈夫、健人。思い出して。
――約束したでしょう、私と共に歩むと。
――あなたは私を選んだの。忘れてしまっても、心は知っているはず……。
言葉が優しく折り重なり、心の奥をなぞるように流れ込んでくる。健人は逃れようと意志を働かせようとしたが、身体は痺れに覆われて指一本動かせなかった。
痺れは甘美な重さを持ち、まるで深い水に沈み込むようだった。
視界は暗転し、意識は闇の中へと滑り落ちていく。
――落ちていけ。
――思い出すまで。
最後に聞こえたその囁きは、呪いと祝福を兼ね備えた調べだった。
◆
どれほどの時が経ったのだろう。
ふと気づくと、和室は静まり返り、ただ二人だけがそこにいた。
障子も畳も、確かにそこにあるのに、現実の色彩は失われ、仄暗い靄に包まれている。
黒いドレスの女性は、健人の目の前に立っていた。紅く妖しい炎のような瞳が、闇の中で鋭く輝き、彼の魂を絡め取る。
彼女は黙って見つめていた。
そして――健人もまた、その瞳を見返していた。
健人の瞳もまた、紅く燃えていた。
微かな笑みが彼の口元に浮かんでいた。無邪気さではなく、妖艶な笑み。
それは、先ほどまでの健人自身が持っていた表情ではなかった。
ふたりの紅い視線が交わり、和室の空気は一層濃く淀んでいく。
女性は、ゆっくりと顔を近づける。長い黒髪が健人の肩を撫で、吐息が触れ合うほどの距離で、囁いた。
「――私との約束を叶えて」
その声は甘美でありながら背筋を凍らせる力を持ち、命令であると同時に懇願のようにも響いた。
健人の紅い瞳が、さらに妖しく輝きを増していった。