日曜日, 11月 08, 2026

忘却と約束

 (33)

健人は突然現れた女性に抱きすくめられ、その冷たくも甘やかな腕から逃れることができなかった。黒いレースの布越しに伝わる体温は、人間のものとはどこか違う、現実感のない温度だった。


 胸の奥で心臓が暴れているのに、四肢は凍りついたように動かない。恐怖なのか、あるいは抗えない魅了の力なのか、健人には判断がつかなかった。


 そのとき、背後――つまり鏡の中から、もう一人の自分の声が響いた。

 ため息まじりの低い声。


 「……やれやれ。やはり記憶を失ってしまっているらしいな。約束さえも忘れているとはな」


 言葉には諦めと皮肉が入り混じり、それでもどこか期待を含んでいるように聞こえた。


 女性は抱きついたまま、ゆるやかに瞳を細めた。ターコイズブルーの透明な光が、一瞬だけ翳りを帯びる。哀しみが宿ったその眼差しは、彼女の言葉を雄弁にしていた。


 「……思い出して。お願い……私のことを」


 彼女の囁きは、柔らかい羽毛が耳に触れるように優しく、しかしどこか強引に心の奥へと入り込んでくる。健人の視線は自然と彼女の瞳に吸い込まれていった。


 そのときだった。


 ターコイズの瞳が、ゆらりと色を変え始める。

 透き通った水の色が赤い光に染まり、やがて紅蓮の炎のような妖しい輝きとなった。


 「……っ!」


 健人の呼吸が乱れる。視界の端が歪み、畳の縁も襖の線もぼやけ始める。

 和室全体がかすみ、輪郭が波打つように揺らめいた。


 同時に、彼女の声が耳からではなく頭の内側に響きはじめる。


 ――大丈夫、健人。思い出して。

 ――約束したでしょう、私と共に歩むと。

 ――あなたは私を選んだの。忘れてしまっても、心は知っているはず……。


 言葉が優しく折り重なり、心の奥をなぞるように流れ込んでくる。健人は逃れようと意志を働かせようとしたが、身体は痺れに覆われて指一本動かせなかった。


 痺れは甘美な重さを持ち、まるで深い水に沈み込むようだった。

 視界は暗転し、意識は闇の中へと滑り落ちていく。


 ――落ちていけ。

 ――思い出すまで。


 最後に聞こえたその囁きは、呪いと祝福を兼ね備えた調べだった。


◆


 どれほどの時が経ったのだろう。


 ふと気づくと、和室は静まり返り、ただ二人だけがそこにいた。

 障子も畳も、確かにそこにあるのに、現実の色彩は失われ、仄暗い靄に包まれている。


 黒いドレスの女性は、健人の目の前に立っていた。紅く妖しい炎のような瞳が、闇の中で鋭く輝き、彼の魂を絡め取る。


 彼女は黙って見つめていた。

 そして――健人もまた、その瞳を見返していた。


 健人の瞳もまた、紅く燃えていた。


 微かな笑みが彼の口元に浮かんでいた。無邪気さではなく、妖艶な笑み。

 それは、先ほどまでの健人自身が持っていた表情ではなかった。


 ふたりの紅い視線が交わり、和室の空気は一層濃く淀んでいく。


 女性は、ゆっくりと顔を近づける。長い黒髪が健人の肩を撫で、吐息が触れ合うほどの距離で、囁いた。


 「――私との約束を叶えて」


 その声は甘美でありながら背筋を凍らせる力を持ち、命令であると同時に懇願のようにも響いた。


 健人の紅い瞳が、さらに妖しく輝きを増していった。