日曜日, 1月 18, 2026

第十五話 知らない横顔

 その日、拓海はひとりで街を歩いていた。

本来なら、あかりと映画に行く約束をしていたのだが、あかりから「今日はちょっと用事がある」と連絡が入り、急遽キャンセルになった。


別に、気にするようなことじゃない。

最近のあかりは以前よりも活き活きしていて、自分の時間を持つことも増えていた。

それは喜ばしいことだ。拓海自身、あかりのそんな姿を見るたびに、安心もしていた。


……そう、安心していたはずだった。


「……あれ?」


人通りの多い駅前の大通り。

拓海は、交差点の向こうで、見覚えのある姿を見つけた。


小柄な体に、ベージュのカーディガンを羽織った人物――あかりだった。

髪は少し巻かれていて、口紅の色もいつもより華やかだ。

それだけでも、彼女が誰かと特別な時間を過ごしていることが伝わってくる。


その隣にいたのは――

艶やかな黒髪をなびかせ、上品なワンピースをまとった大人の女性。

高いヒール、洗練された所作。

一瞬で目を惹かれるような、美しさと自信を纏った人。


あかりが、彼女と歩いている。

しかも――笑っていた。


いや、それだけじゃない。

あかりのその笑顔は、拓海の知っているものとは違っていた。


いつものあかりは、どこか遠慮がちに笑っていた。

照れたように、目を細めて、控えめに表情を見せる。

でも今、彼女がその女性を見つめる瞳には、熱があった。

憧れとも、尊敬とも、恋しさともつかない――けれど確かに、特別な感情が込められていた。


拓海の足が止まった。

思わず歩道の陰に身を隠す。


気づかれてはいけない。

そう思ったわけじゃない。ただ、目を逸らすことができなかった。


二人の距離は近く、まるで長年の恋人同士のように自然に歩いている。

ときおり、あかりがその女性の腕にそっと手を添えたり、小さな声で何かを囁いたりする。

彼女の表情は、穏やかで、柔らかく、そして――幸せそうだった。


「……なんだよ、それ……」


拓海は、小さく呟いた。


胸の奥に、鋭い針を刺されたような痛みが走る。

あかりが誰と過ごそうと、彼女の自由だ。

だが、なぜこんなにも苦しいのだろう。


あかりは、男装している自分も本当の自分だと語っていた。

その自信を取り戻していく彼女を見て、拓海は心から応援してきた。

でも今、目の前にいるあかりは――拓海の知らない顔をしていた。


「……知らないよ、そんな顔……」


呟いた声は、かすれていた。


そうだ。あかりは、何も言っていなかった。

冴香という名も、彼女の存在も、すべて拓海は初めて知った。


なぜ黙っていたのか。

なぜ、これまで通りに接していたのか。

なぜ、その女性といるときだけ、そんな優しい顔をするのか。


答えは出ない。けれど、心は確かにざわついていた。


ふいに、女性があかりの耳元に何かを囁いた。

あかりは、ふっと笑って、ほんの少し頬を染めた。


その仕草が、あまりにも自然で、

あまりにも大人びていて、

拓海の中で何かが静かに崩れていくのを感じた。


――あかりは、変わってしまったのか?


いや、そうじゃない。

きっと、あかりはずっとそうだった。

ただ、自分の知らないあかりを、冴香という女性が引き出しただけなのだ。


そして、拓海には見せなかったその表情を、今、その女性にだけ向けている。


拓海は気づいていた。

あかりが悩んでいた頃、自分はただ「いつも通りのあかり」を求めていた。

安心させてくれるあかり、頼ってくれるあかり、変わらないでいてくれるあかり。


でも――


彼女は変わることを選んだ。

自分の心に正直になろうとしている。

そしてその隣には、自分ではない誰かが立っている。


交差点の信号が変わり、人波が流れ始める。


拓海は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


「……これが、答えなのか」


誰かに問いかけるように呟いたその声は、風にかき消された。


開けた瞼の先には、もうあかりと冴香の姿はなかった。

でも、その光景は拓海の胸に深く焼き付いていた。


まだ気持ちを整理できるわけじゃない。

ただ、たった今、自分の中の何かが静かに終わりを迎えたような、そんな感覚だけが残っていた。