その日、拓海はひとりで街を歩いていた。
本来なら、あかりと映画に行く約束をしていたのだが、あかりから「今日はちょっと用事がある」と連絡が入り、急遽キャンセルになった。
別に、気にするようなことじゃない。
最近のあかりは以前よりも活き活きしていて、自分の時間を持つことも増えていた。
それは喜ばしいことだ。拓海自身、あかりのそんな姿を見るたびに、安心もしていた。
……そう、安心していたはずだった。
「……あれ?」
人通りの多い駅前の大通り。
拓海は、交差点の向こうで、見覚えのある姿を見つけた。
小柄な体に、ベージュのカーディガンを羽織った人物――あかりだった。
髪は少し巻かれていて、口紅の色もいつもより華やかだ。
それだけでも、彼女が誰かと特別な時間を過ごしていることが伝わってくる。
その隣にいたのは――
艶やかな黒髪をなびかせ、上品なワンピースをまとった大人の女性。
高いヒール、洗練された所作。
一瞬で目を惹かれるような、美しさと自信を纏った人。
あかりが、彼女と歩いている。
しかも――笑っていた。
いや、それだけじゃない。
あかりのその笑顔は、拓海の知っているものとは違っていた。
いつものあかりは、どこか遠慮がちに笑っていた。
照れたように、目を細めて、控えめに表情を見せる。
でも今、彼女がその女性を見つめる瞳には、熱があった。
憧れとも、尊敬とも、恋しさともつかない――けれど確かに、特別な感情が込められていた。
拓海の足が止まった。
思わず歩道の陰に身を隠す。
気づかれてはいけない。
そう思ったわけじゃない。ただ、目を逸らすことができなかった。
二人の距離は近く、まるで長年の恋人同士のように自然に歩いている。
ときおり、あかりがその女性の腕にそっと手を添えたり、小さな声で何かを囁いたりする。
彼女の表情は、穏やかで、柔らかく、そして――幸せそうだった。
「……なんだよ、それ……」
拓海は、小さく呟いた。
胸の奥に、鋭い針を刺されたような痛みが走る。
あかりが誰と過ごそうと、彼女の自由だ。
だが、なぜこんなにも苦しいのだろう。
あかりは、男装している自分も本当の自分だと語っていた。
その自信を取り戻していく彼女を見て、拓海は心から応援してきた。
でも今、目の前にいるあかりは――拓海の知らない顔をしていた。
「……知らないよ、そんな顔……」
呟いた声は、かすれていた。
そうだ。あかりは、何も言っていなかった。
冴香という名も、彼女の存在も、すべて拓海は初めて知った。
なぜ黙っていたのか。
なぜ、これまで通りに接していたのか。
なぜ、その女性といるときだけ、そんな優しい顔をするのか。
答えは出ない。けれど、心は確かにざわついていた。
ふいに、女性があかりの耳元に何かを囁いた。
あかりは、ふっと笑って、ほんの少し頬を染めた。
その仕草が、あまりにも自然で、
あまりにも大人びていて、
拓海の中で何かが静かに崩れていくのを感じた。
――あかりは、変わってしまったのか?
いや、そうじゃない。
きっと、あかりはずっとそうだった。
ただ、自分の知らないあかりを、冴香という女性が引き出しただけなのだ。
そして、拓海には見せなかったその表情を、今、その女性にだけ向けている。
拓海は気づいていた。
あかりが悩んでいた頃、自分はただ「いつも通りのあかり」を求めていた。
安心させてくれるあかり、頼ってくれるあかり、変わらないでいてくれるあかり。
でも――
彼女は変わることを選んだ。
自分の心に正直になろうとしている。
そしてその隣には、自分ではない誰かが立っている。
交差点の信号が変わり、人波が流れ始める。
拓海は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……これが、答えなのか」
誰かに問いかけるように呟いたその声は、風にかき消された。
開けた瞼の先には、もうあかりと冴香の姿はなかった。
でも、その光景は拓海の胸に深く焼き付いていた。
まだ気持ちを整理できるわけじゃない。
ただ、たった今、自分の中の何かが静かに終わりを迎えたような、そんな感覚だけが残っていた。