日曜日, 10月 18, 2026

鏡と欲望

 (30)

心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜる。喉が焼け付くように乾き、呼吸は乱れに乱れていた。健人は覚悟を決め、ゆっくりと背後を振り返った。


 そこに――男が立っていた。


 いや、男というより、それは健人自身の姿をしていた。

 背丈も、体つきも、髪型も、まるで鏡に映したように寸分違わぬ姿。だが、ただひとつだけ決定的に異なるものがあった。


 ――笑み。


 その「もう一人の健人」は、薄く歪んだ笑みを口元に貼りつけ、まるで嘲るかのようにこちらを見下ろしていた。目は冷たく濁り、獲物を値踏みするような光を帯びている。


 「……な、なんだ……お前は」


 健人はかろうじて声を絞り出した。声は震えて、弱々しく、まるで自分のものではないように響いた。


 すると、その男はゆっくりと口を開いた。低く響く声は、確かに健人自身のものに似ていたが、そこには鋭い棘が潜んでいた。


 「どうして……そんなに力を無駄に使う?」


 健人は一瞬言葉の意味を理解できず、眉をひそめた。

 「……力?」


 「そうだよ。お前が持ってる視線の力だ」


 男は冷ややかに言い放った。

 「せっかく何もかも支配できるほどの力を持っているのに……どうしてあんな温いことに使ってる? 優しいだの、安心させるだの……そんなの、無駄だろう」


 胸の奥がざわついた。健人は理解が追いつかないまま、しかし必死に言葉を探す。

 「……お前……誰なんだ……?」


 男は不敵な笑みをさらに深めた。

 「俺は――もう一人のお前だよ。普段お前が抑え込んで、見ないようにしている側の……健人さ」


 「……抑え込んでる……?」


 「そうだ」

 男は一歩近づいた。畳がわずかに軋む音が、やけに大きく響く。

 「お前はいつも自分に言い訳してるだろう? “優しくしなきゃ”、“守らなきゃ”、そんな言葉で、自分の欲望や衝動を押さえつけてる。だが本当は分かってるはずだ――お前の視線ひとつで、誰だってお前の思いどおりになるってことを」


 健人の胸の奥に、言いようのない重苦しい感情が広がった。

 思いどおりに……できる? いや、そんなことは――。


 「違う……そんなつもりは……」


 必死に否定しかけたが、その声を男が遮った。


 「いい子ぶるなよ!」


 鋭い声が和室に反響し、健人の耳を打った。

 「お前は“違う”って言うけどな、俺には分かる。あのときもそうだっただろう? 綾乃を激情に呑ませ、美咲を眠りに沈め……全部、お前の視線がやったことだ」


 「……!」


 健人は息を呑んだ。確かに、美咲も綾乃も、自分の視線で変化した。それは偶然ではないと、この男は言い切っている。


 「お前が一歩踏み出すだけで、人は簡単に堕ちる。お前を愛するように、縋るように、求めるようになる。全部、お前次第でな」


 男の声は熱を帯び始めていた。しかしその熱は決して温かさではなく、燃えさかる欲望の炎そのものだった。


 「それなのに……お前はどうして……どうして、そんなに“いい子”を演じ続けるんだ!」


 男の叫びは、怒りと苛立ちに満ちていた。


 「目を逸らすな。お前の中にあるのは、俺だ。俺こそがお前の本当の姿なんだ。支配する力を持っていながら、なぜ手を伸ばさない! なぜ欲望のままに生きない!」


 健人は後ずさりしながら、頭を振った。

 「違う……そんなの俺じゃない……」


 だが、男の笑みはますます深くなる。

 「違う? 本当にそう思っているのか?」


 その言葉が胸に刺さり、健人は言葉を失った。