(30)
心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜる。喉が焼け付くように乾き、呼吸は乱れに乱れていた。健人は覚悟を決め、ゆっくりと背後を振り返った。
そこに――男が立っていた。
いや、男というより、それは健人自身の姿をしていた。
背丈も、体つきも、髪型も、まるで鏡に映したように寸分違わぬ姿。だが、ただひとつだけ決定的に異なるものがあった。
――笑み。
その「もう一人の健人」は、薄く歪んだ笑みを口元に貼りつけ、まるで嘲るかのようにこちらを見下ろしていた。目は冷たく濁り、獲物を値踏みするような光を帯びている。
「……な、なんだ……お前は」
健人はかろうじて声を絞り出した。声は震えて、弱々しく、まるで自分のものではないように響いた。
すると、その男はゆっくりと口を開いた。低く響く声は、確かに健人自身のものに似ていたが、そこには鋭い棘が潜んでいた。
「どうして……そんなに力を無駄に使う?」
健人は一瞬言葉の意味を理解できず、眉をひそめた。
「……力?」
「そうだよ。お前が持ってる視線の力だ」
男は冷ややかに言い放った。
「せっかく何もかも支配できるほどの力を持っているのに……どうしてあんな温いことに使ってる? 優しいだの、安心させるだの……そんなの、無駄だろう」
胸の奥がざわついた。健人は理解が追いつかないまま、しかし必死に言葉を探す。
「……お前……誰なんだ……?」
男は不敵な笑みをさらに深めた。
「俺は――もう一人のお前だよ。普段お前が抑え込んで、見ないようにしている側の……健人さ」
「……抑え込んでる……?」
「そうだ」
男は一歩近づいた。畳がわずかに軋む音が、やけに大きく響く。
「お前はいつも自分に言い訳してるだろう? “優しくしなきゃ”、“守らなきゃ”、そんな言葉で、自分の欲望や衝動を押さえつけてる。だが本当は分かってるはずだ――お前の視線ひとつで、誰だってお前の思いどおりになるってことを」
健人の胸の奥に、言いようのない重苦しい感情が広がった。
思いどおりに……できる? いや、そんなことは――。
「違う……そんなつもりは……」
必死に否定しかけたが、その声を男が遮った。
「いい子ぶるなよ!」
鋭い声が和室に反響し、健人の耳を打った。
「お前は“違う”って言うけどな、俺には分かる。あのときもそうだっただろう? 綾乃を激情に呑ませ、美咲を眠りに沈め……全部、お前の視線がやったことだ」
「……!」
健人は息を呑んだ。確かに、美咲も綾乃も、自分の視線で変化した。それは偶然ではないと、この男は言い切っている。
「お前が一歩踏み出すだけで、人は簡単に堕ちる。お前を愛するように、縋るように、求めるようになる。全部、お前次第でな」
男の声は熱を帯び始めていた。しかしその熱は決して温かさではなく、燃えさかる欲望の炎そのものだった。
「それなのに……お前はどうして……どうして、そんなに“いい子”を演じ続けるんだ!」
男の叫びは、怒りと苛立ちに満ちていた。
「目を逸らすな。お前の中にあるのは、俺だ。俺こそがお前の本当の姿なんだ。支配する力を持っていながら、なぜ手を伸ばさない! なぜ欲望のままに生きない!」
健人は後ずさりしながら、頭を振った。
「違う……そんなの俺じゃない……」
だが、男の笑みはますます深くなる。
「違う? 本当にそう思っているのか?」
その言葉が胸に刺さり、健人は言葉を失った。