日曜日, 3月 01, 2026

第二十一話

 部屋の空気が、さらに深く沈んだように感じられた。

鏡の中の冴香は、ゆっくりと微笑みを深め、その紅い唇から囁くような声が洩れる。


――私に触れて、一つになって。


その瞬間、あかりの胸の奥で、何かが大きく脈打った。

低く甘い声が、耳からではなく、全身に直接響いてくるようで、逃げ場はなかった。

冴香の視線は、まるで鋼の糸のようにあかりを縛りつけ、抗う力を削ぎ落としていく。


「……そんなこと、できない…」

そう言葉にしたはずなのに、喉の奥はかすれ、声にならなかった。

気が付けば、あかりの右手はゆっくりと持ち上がっていた。

まるで自分の意思ではないように――ただ、その差し出された手に引き寄せられるように。


鏡の表面が目の前に迫る。

本来なら冷たいガラスに触れるはずだった。

しかし――。


「…あ、あったかい…」


指先に感じたのは、冴香の確かな温もりだった。

柔らかく包み込むような感触が、手のひらから腕へ、そして胸の奥へと広がっていく。

戸惑いの息が漏れたと同時に、心の奥底から記憶が滲み出す。


夜の街を二人で歩いたときの足音。

肩が触れたときの微かな熱。

笑った顔と、時折見せる切なげな瞳。

あかりの世界を少しだけ変えてしまった、あの夜の冴香。


(やっぱり…忘れられない…)


その想いが胸を締め付ける。

それと同時に、周囲の空気が震え、視界がじわりと白く滲み始めた。

白い光は、雪のように柔らかで、けれども逃げ場を奪うほど強く輝いていく。


「…なに、これ…」


まぶしさに目を細めると、鏡の境界が淡く溶け始めていた。

液体が混じり合うように、こちらと向こうが一つになっていく。

冴香の姿が、もう鏡の中の存在ではなく、現実の空間に踏み出していた。


その歩みはゆっくりで、しかし確実だった。

光を背にした冴香が、あかりの目の前に立つ。

近くで見るその瞳は、かつて見たどんな時よりも深く、吸い込まれそうな色をしていた。


冴香の右手が、そっとあかりの頬に触れる。

ひやりとした指先が、すぐに体温を帯び、優しく撫でる。

あかりの喉が小さく鳴った。


「…冴香…」

呼びかけは、掠れた囁きになった。


その瞬間、冴香が微笑み、あかりの耳元に顔を寄せる。

吐息が耳朶をかすめ、その奥に直接、甘く危うい声が落ちていく。


――一つになりましょう。


その言葉と同時に、冴香の腕があかりの背へと回された。

ゆっくりと、しかし逃れられない強さで引き寄せられる。

その抱擁は温かく、同時に深い底へと誘うような感覚を持っていた。


胸の鼓動が、耳鳴りのように響く。

頭の中が熱と光で満たされ、境界線が消えていく。

現実と幻の区別が、もうつかない。


(…このまま…)

抗う気持ちが、甘美な感情に溶かされていく。

心は激しく揺れながらも、冴香の温もりを拒むことはできなかった。


視界の端が暗く滲み、意識がふっと遠のく。

最後に感じたのは、冴香の胸元から伝わる穏やかな鼓動と、甘く長い吐息だった。


そして――あかりの身体から力が抜け、意識は光の中へと溶けていった。