部屋の空気が、さらに深く沈んだように感じられた。
鏡の中の冴香は、ゆっくりと微笑みを深め、その紅い唇から囁くような声が洩れる。
――私に触れて、一つになって。
その瞬間、あかりの胸の奥で、何かが大きく脈打った。
低く甘い声が、耳からではなく、全身に直接響いてくるようで、逃げ場はなかった。
冴香の視線は、まるで鋼の糸のようにあかりを縛りつけ、抗う力を削ぎ落としていく。
「……そんなこと、できない…」
そう言葉にしたはずなのに、喉の奥はかすれ、声にならなかった。
気が付けば、あかりの右手はゆっくりと持ち上がっていた。
まるで自分の意思ではないように――ただ、その差し出された手に引き寄せられるように。
鏡の表面が目の前に迫る。
本来なら冷たいガラスに触れるはずだった。
しかし――。
「…あ、あったかい…」
指先に感じたのは、冴香の確かな温もりだった。
柔らかく包み込むような感触が、手のひらから腕へ、そして胸の奥へと広がっていく。
戸惑いの息が漏れたと同時に、心の奥底から記憶が滲み出す。
夜の街を二人で歩いたときの足音。
肩が触れたときの微かな熱。
笑った顔と、時折見せる切なげな瞳。
あかりの世界を少しだけ変えてしまった、あの夜の冴香。
(やっぱり…忘れられない…)
その想いが胸を締め付ける。
それと同時に、周囲の空気が震え、視界がじわりと白く滲み始めた。
白い光は、雪のように柔らかで、けれども逃げ場を奪うほど強く輝いていく。
「…なに、これ…」
まぶしさに目を細めると、鏡の境界が淡く溶け始めていた。
液体が混じり合うように、こちらと向こうが一つになっていく。
冴香の姿が、もう鏡の中の存在ではなく、現実の空間に踏み出していた。
その歩みはゆっくりで、しかし確実だった。
光を背にした冴香が、あかりの目の前に立つ。
近くで見るその瞳は、かつて見たどんな時よりも深く、吸い込まれそうな色をしていた。
冴香の右手が、そっとあかりの頬に触れる。
ひやりとした指先が、すぐに体温を帯び、優しく撫でる。
あかりの喉が小さく鳴った。
「…冴香…」
呼びかけは、掠れた囁きになった。
その瞬間、冴香が微笑み、あかりの耳元に顔を寄せる。
吐息が耳朶をかすめ、その奥に直接、甘く危うい声が落ちていく。
――一つになりましょう。
その言葉と同時に、冴香の腕があかりの背へと回された。
ゆっくりと、しかし逃れられない強さで引き寄せられる。
その抱擁は温かく、同時に深い底へと誘うような感覚を持っていた。
胸の鼓動が、耳鳴りのように響く。
頭の中が熱と光で満たされ、境界線が消えていく。
現実と幻の区別が、もうつかない。
(…このまま…)
抗う気持ちが、甘美な感情に溶かされていく。
心は激しく揺れながらも、冴香の温もりを拒むことはできなかった。
視界の端が暗く滲み、意識がふっと遠のく。
最後に感じたのは、冴香の胸元から伝わる穏やかな鼓動と、甘く長い吐息だった。
そして――あかりの身体から力が抜け、意識は光の中へと溶けていった。