(9)
翌朝――。
健人は重たいまぶたを持ち上げた。
視界に広がったのは、見慣れた教室の天井。窓からは柔らかな朝の光が差し込み、淡い影が机と椅子を長く伸ばしている。夜の冷たさは去り、ほのかに暖かい空気が漂っていた。
身体を起こすと、隣には美咲が静かに眠っている。まだ寝息が浅く、眉間にはわずかな皺が寄っていたが、彼女の頬には昨夜とは違う穏やかさが戻っていた。
その姿を見て、健人は胸を撫で下ろす。少なくとも、自分はひとりではない――そう思うだけで、不安の波が少しだけ退いていく。
立ち上がって窓辺に寄り、外を見下ろした。
校舎の向こうに広がる住宅街は、見慣れたものだった。赤い屋根の家、並んだ電柱、遠くの大通りへ続く道路。昨日まで通っていた日常の風景そのもの。
だが――やはり人の気配はなかった。
車が動くこともなく、犬の鳴き声も聞こえない。旗めく洗濯物もなく、窓辺に立つ人影もない。まるで誰もいない模型の町を見ているようだった。
(……どうやったら元に戻れるんだ?)
健人は腕を組み、必死に考える。
昨日の「光」と「視線」。あの時は、奇跡のように美咲を呼び戻すことができた。だがそれがどういう仕組みなのか、自分に何ができるのか、見当もつかない。
ただ一つ分かるのは、このまま待っているだけでは状況は変わらないだろうということだ。
その時、小さな声が背後からした。
「……ん……」
振り返ると、美咲が毛布の中でもぞもぞと身体を動かし、やがて瞼を開けた。
ぼんやりとした視線が健人を捉え、少しだけ微笑む。
「……健人くん……良かった……まだ隣にいてくれた……」
かすれた声に、健人の胸が温かくなる。
「当たり前だろ。置いて行ったりしないよ」
そう答えると、美咲は安心したように目を細めた。けれど、すぐに表情が引き締まり、真剣な声で言った。
「……私、やっぱり一度家に戻りたい」
健人は目を瞬かせた。
「家に?」
「うん。……もしかしたら、お母さんが家の中にいるかもしれない。あるいは……誰か、知ってる人が」
その言葉は切実だった。
美咲にとって、母親は最後の拠り所なのだろう。だが健人はすぐに首を振った。
「外は危ない。俺たち以外に誰もいないかもしれないんだ。昨日だって、校舎の外は真っ暗で、街灯一つ点いてなかった。昼間だからって安心はできない」
美咲は唇を噛んだ。
「……でも、どうしても確かめたいの。もし本当に誰もいないなら……せめて、確かめなきゃ前に進めないから」
その目は真剣で、迷いがなかった。
それを見て健人は少し考えた。が、止めても、彼女の決意は揺るがないだろう。
しばし沈黙ののち、大きく息を吐いた。
「……分かった。一緒に行こう」
美咲はぱっと顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。でも、何も持たずに行くのは危険だ。どんな状況か分からないんだから。……まずは校内を調べて、使えそうなものを探そう」
美咲は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「うん……そうだね」
健人はほっとする。彼女を守りたい一心で口にした言葉だったが、それが受け入れられたことに、わずかな安堵を覚えた。
二人は毛布を畳み、机の上に置くと、教室を出て廊下に出た。
朝の光に照らされた校舎は、いつもと変わらぬ静けさを保っている。だが、そこに満ちているのは日常の喧騒ではなく、不自然なまでの沈黙だった。
廊下を進みながら、美咲は健人の袖を軽く握った。
「……ごめんね、わがまま言って」
「いいよ。……俺も、何か行動しないと落ち着かないし」
健人はできるだけ平静を装った声で答える。だが心臓の鼓動は速く、冷たい汗が背中を伝っていた。
(……この先、何が待っているんだろう)
そう思いながらも、健人は歩みを止めなかった。
まずは校内を探し、次に街へ。
二人の新たな探索が、いま始まろうとしていた。