日曜日, 6月 14, 2026

視線と囁き

(12)

 売店の静けさに包まれながら、二人はしばし無言のまま座っていた。

 沈黙は長く続かなかった。


 美咲がゆっくりと立ち上がり、健人の方へ歩み寄る。

 そして、彼のすぐ前に立ち、まっすぐに見つめてきた。


「健人くん……」

 柔らかな声に、健人は思わず息を飲んだ。

「……前にも言ったよね。私のこと、見てほしいって」


 その言葉は、穏やかでありながら揺るぎない響きを持っていた。


 健人の胸がどきりと高鳴る。

 確かに、美咲は以前から「見てほしい」と言っていた。だが今、こうして真正面から言われると、どう見ればいいのか分からなくなってしまう。


「……でも、美咲は……俺の視線がどこに当たってるか、分かるんだろ?」

「うん。分かるよ」

「だったら……下手に見たら、変に思われるんじゃ……」


 戸惑いながら言葉を濁す健人に、美咲はふっと微笑んだ。

 その笑みは、どこか子どものような無邪気さと、大人びた確信を同時に宿していた。


「だからこそ、確かめてみたいの。……健人くんの視線が、他の場所に当たっても温かいのか」


 そう言って、美咲はゆっくりと目を閉じた。

 長いまつげが頬に影を落とし、まるで祈るように静かな呼吸を整えている。


「……ほら、やってみて」


 健人は心臓が跳ねるのを感じた。

 視線を向けるだけなのに、なぜこんなに緊張するのか。

 額に汗がにじむのを拭いながら、意を決して美咲の首筋へ視線を移した。


「……どうだ?」


 わずかな沈黙のあと、美咲の唇がやわらかく開いた。

「うん……首がぽかぽかする。すごく優しい温かさ」


 その表情は、安心に包まれた子どものように安らいでいた。

 健人は次に肩へ、さらに腕や手のひらへと視線を移す。


「……肩も、腕も……あったかい」

「……手のひらは?」

「ん……あったかい。健人くんの手に触れられてるみたい」


 美咲は目を閉じたまま、嬉しそうに微笑んだ。

 その無防備な姿に、健人の胸は高鳴り、喉がからからに渇いた。


 やがて、美咲は小さな声で続けた。

「……ねえ、健人くん」

「ん?」

「……これまで、痛い視線ばかり感じてきたところ……そこも、見てみてほしいの」


 その声は小さく、震えていた。

 美咲は顔を赤らめながら、うつむき気味に付け加える。

「……胸とか……お腹の真ん中とか。ずっといやらしい視線を浴びて、気持ち悪かった場所」


 健人は言葉を失った。

 顔が一気に熱を帯び、耳まで真っ赤になるのが分かる。


「そ、それは……」

 どうしても直視できず、思わず目を逸らしかける。


 だが、美咲は勇気を振り絞るように囁いた。

「……健人くんなら、違うって思うから。……お願い」


 その声は必死だった。

 健人は深呼吸し、赤くなった顔を隠すように視線を少し落とす。

 胸の奥が苦しくなるほど緊張しながら、盗み見るように美咲の身体の中心へと視線を投げかけた。


 しばしの沈黙。

 次の瞬間、美咲はふうっと息を吐き、ほっとしたように笑った。


「……やっぱり。痛くない。優しくて……あったかい」


 その安堵の表情に、健人の胸がじんわりと熱くなった。

 同時に、視線を向けるだけで彼女を安心させられることが、不思議でならなかった。


 美咲はゆっくりと目を開け、健人を見つめる。

 頬をほんのり赤らめながら、そっと健人の両手を取った。


 彼女の手は、驚くほど温かかった。

 そのまま両手をしっかり握りしめ、健人の目の前に立つ。


「……健人くん。これからも、ずっと……私のことを見ていてね」


 囁きは甘く、耳に溶け込むように響いた。


 至近距離で見つめ合い、握られた手の温もりが直に伝わってくる。

 健人の鼓動は早鐘のように鳴り止まず、顔は真っ赤になっていた。


 言葉は出てこなかった。

 ただ、美咲の瞳の中に自分が映っていることだけが、確かな真実として胸を震わせた。