(11)
健人はパンの残りを机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
売店の中をもう一度見回す。
ガラス張りのショーケースには、まだ誰かが買うのを待っているかのようにパンが整列している。
壁には校内でよく見かける、縦に長い姿見の鏡がかけられていた。
けれど、そこに映っているのは自分と美咲だけ。他に影も人影もない。
息を潜めるようにして周囲を探ったが、やはり何も見つからなかった。
その間、美咲はじっと背中を押さえるようにして座っていた。やがて小さく息を吐き、顔を上げる。
「……今、消えた」
「消えた?」
「うん……背中の温かさ。さっきまでずっとあったのに、健人くんが立ち上がって周りを見始めたら、すっと消えちゃった」
健人は眉をひそめた。
「じゃあ……やっぱり何かの視線だったのか? それとも――」
「分からない。でも、あれは……痛い視線じゃなかった」
健人は思わず息を呑んだ。
「じゃあ、俺が見た時と同じ……?」
美咲は少し戸惑うように頷いた。
「そう。あの時みたいに、じんわり温かくて、安心するような感じだった」
「でも、俺が見てたのは美咲の顔や横顔だぞ。背中じゃない」
健人の言葉に、美咲はわずかに目を伏せる。唇をかみ、ためらうように言葉を選んだ。
「……あのね、私……視線が当たる場所、分かるの」
「場所が……分かる?」
「うん。たとえば、耳とか頬とかに当たってるって、はっきり分かる。……他の人の視線も全部」
その声は小さく、どこか恥ずかしさを含んでいた。
健人は思わず身を乗り出す。
「じゃあ……さっきの背中に感じた温かさも?」
「そう……でも、誰が見てるのかは分からなかった。だから余計に怖かったの」
美咲は自分の肩を抱くようにして言った。
健人はしばし沈黙した後、恐る恐る聞いてみた。
「……なあ、美咲。じゃあ、他の人の視線って……全部分かるのか?」
美咲は顔を赤らめ、俯いた。
「……分かる。だから……イヤなんだ。他の人の視線って、胸とか……お尻とか……そういうところに向けられるのが多いから。見られるたびにそこがじりじり熱くて、気持ち悪くて……一日中、体のあちこちがチリチリするの」
その告白は、健人にとって衝撃だった。
彼女が普段どれだけ耐えてきたのかを思うと、胸が痛んだ。
だが次の瞬間、美咲はちらりと健人を見て、かすかに笑った。
「でもね……健人くんの視線は違う。身体じゃなくて……顔とか、耳とかに当たるから。だから、あの時みたいに温かく感じるんだよ」
健人の鼓動が跳ね上がった。
思わず視線を逸らしそうになったが、美咲が真剣に見つめ返してくるので、逃げられなかった。
「……俺の視線、そんなに分かるのか」
「うん……全部」
美咲は少し恥ずかしそうに言葉を続けた。
「だから……昨日も、盗み見してるの、気づいてた」
その瞬間、健人の耳まで赤くなった。
盗み見していたことを自覚していたが、実際に本人に指摘されると恥ずかしさで胸が詰まる。
「そ、それは……」
言葉を探す健人を見て、美咲はくすりと笑った。
「でも……イヤじゃなかったよ。むしろ……守られてるみたいで安心した」
その笑顔に、健人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが同時に、背中に感じた温かさの正体が分からない不安も残る。
もし本当に自分以外の視線なら――それは一体、誰のものなのか。
二人は言葉を失い、売店の中に静寂が戻った。
パンの甘い香りはまだ漂っているのに、空気は妙に冷たく、重く感じられた。
健人の心臓は、ドキドキと早鐘を打ちながらも、胸の奥で小さなざわめきを拭えずにいた。