日曜日, 7月 26, 2026

燐光と微睡み

 (18)

健人の心臓は、激しく胸を叩いていた。

 目の前で淡い青の燐光に包まれ、今にも消え入りそうになっている美咲の母――佐伯綾乃。

 畳の上で横たわっていた彼女は意識を取り戻したものの、娘の美咲の声にも手にも触れられず、薄れていく存在に怯えていた。


「健人くん……お願い、お母さんを……!」


 美咲の切羽詰まった声が、健人の耳に届く。

 それはただの頼みごとではなかった。必死の祈り、命を賭けた叫び。

 健人は奥歯を強く噛み締め、覚悟を決める。


 ――美咲のときと同じようにすれば、きっと。


 自分の視線は、美咲をこの世界へ繋ぎ止めた。

 ならば、美咲の母に対しても同じことができるはずだ。


 健人は足を一歩踏み出し、綾乃の前に進み出た。

 そして、美咲の時と同じように、相手の目を真っ直ぐに見つめようとした。


「……っ!」


 だが、綾乃は驚愕に目を見開き、思わず後ろへと下がった。

 その瞬間、彼女の身体を包む燐光が大きく揺らぎ、弱まり、ほとんど消え入りそうになった。


「やだっ……!」


 美咲の悲鳴が和室に響き渡る。

 青白い光は今や頼りない火花のように揺れ、畳の上で消えかける蝋燭の炎のように心許なかった。


「待って! 逃げないで! 健人くんの視線で、私も戻れたの! だから……だからお母さんも――!」


 必死に泣き叫ぶ美咲の声に、綾乃は壁際で立ち止まった。

 その顔には困惑と恐怖、そして娘を信じたい気持ちがない交ぜに浮かんでいる。


 綾乃は深く息を吸い込み、恐る恐る健人に視線を向けた。

 二人の視線が交わる。

 けれど、揺らめく光は何も変わらなかった。


「どうして……どうして戻れないの……?」

 美咲の声は涙に震えていた。


 健人は唇を噛み、答えを探す。

 ――違う。離れていては駄目なんだ。

 美咲の時も、自分は目の前にまで近づき、互いの呼吸が触れ合うほどの距離で視線を交わした。

 あの熱と、あの想いが繋ぎ止めたのだ。


「……近づかないと」


 健人は呟き、綾乃の方へと歩み寄った。

 壁際に立つ綾乃は後ずさりしそうになるが、美咲の必死の声がそれを押し留めた。


「お母さん、お願い……健人くんを見て! 私のために……!」


 その切実な叫びに、綾乃は躊躇しながらも足を止めた。

 そして、健人はそのすぐ目の前まで歩み寄り、互いの顔が手を伸ばせば触れられる距離に迫った。


 青白い光はなお揺らいでいたが、決して消えはしなかった。


「……お願いだから」

 美咲の声が震える。

「お願いだから、お母さんを助けて……!」


 次の瞬間、美咲は健人の背後からしがみついてきた。

 その腕は健人の腰に回され、必死に後ろから押し付けるようにすがりついている。


「健人くん……お願い……!」


 その力に背を押されるようにして、健人の身体は前へ傾いた。

 気づいた時には、自分の姿が綾乃の淡い光の中に重なり合っていた。


「――っ!」


 全身を包み込む感触があった。

 冷たく青白い光ではない。

 柔らかで温かく、心地よい波に全身が抱かれるような感触だった。


 視界は一瞬で変わった。


 暗い和室も、揺らめく燐光も消え去り、代わりに世界が淡いピンクの光に満ち溢れていた。

 空気はほんのり甘く、優しい香りが鼻腔を満たす。桜の花のような、けれどもっと濃密で温かい匂い。


 ――なんだ、これは……。


 健人は自分の手足がじんわりと熱に包まれるのを感じた。

 心臓の鼓動が柔らかい波に溶けていくように、安心と眠気が一気に押し寄せてくる。


「……あったかい……」


 思わず声が漏れた。

 身体中が優しい抱擁に包まれ、痛みも不安も消えていく。

 胸の奥の緊張さえも解け、ただこの温もりに委ねてしまいたいと思った。


 目の前にはまだ青い光を纏った綾乃の姿が揺れている。

 だが、それもまた淡い桃色の光に溶け込み、境界が失われていくように感じられた。


「お母さん……」

 健人は誰にともなく呟いた。


 その瞬間、甘い香りがさらに濃くなり、頭の奥まで痺れるように染み込んでいった。

 まるで春の陽射しの中で微睡むように、意識は急速に沈んでいく。


 背後からすがりついている美咲の温もりも、どこか遠くなっていった。

 けれど確かにその存在は感じられる。

 健人は最後の力を振り絞って、美咲に心の中で応えた。


 ――大丈夫だ。必ず……。


 そう念じたところで、世界は完全に光に呑まれた。

 視界は桃色の輝きに溶け、音も匂いも全てが混じり合い、ただ温かさだけが残った。


 そして――健人の意識は深い闇へと沈んでいった。