(18)
健人の心臓は、激しく胸を叩いていた。
目の前で淡い青の燐光に包まれ、今にも消え入りそうになっている美咲の母――佐伯綾乃。
畳の上で横たわっていた彼女は意識を取り戻したものの、娘の美咲の声にも手にも触れられず、薄れていく存在に怯えていた。
「健人くん……お願い、お母さんを……!」
美咲の切羽詰まった声が、健人の耳に届く。
それはただの頼みごとではなかった。必死の祈り、命を賭けた叫び。
健人は奥歯を強く噛み締め、覚悟を決める。
――美咲のときと同じようにすれば、きっと。
自分の視線は、美咲をこの世界へ繋ぎ止めた。
ならば、美咲の母に対しても同じことができるはずだ。
健人は足を一歩踏み出し、綾乃の前に進み出た。
そして、美咲の時と同じように、相手の目を真っ直ぐに見つめようとした。
「……っ!」
だが、綾乃は驚愕に目を見開き、思わず後ろへと下がった。
その瞬間、彼女の身体を包む燐光が大きく揺らぎ、弱まり、ほとんど消え入りそうになった。
「やだっ……!」
美咲の悲鳴が和室に響き渡る。
青白い光は今や頼りない火花のように揺れ、畳の上で消えかける蝋燭の炎のように心許なかった。
「待って! 逃げないで! 健人くんの視線で、私も戻れたの! だから……だからお母さんも――!」
必死に泣き叫ぶ美咲の声に、綾乃は壁際で立ち止まった。
その顔には困惑と恐怖、そして娘を信じたい気持ちがない交ぜに浮かんでいる。
綾乃は深く息を吸い込み、恐る恐る健人に視線を向けた。
二人の視線が交わる。
けれど、揺らめく光は何も変わらなかった。
「どうして……どうして戻れないの……?」
美咲の声は涙に震えていた。
健人は唇を噛み、答えを探す。
――違う。離れていては駄目なんだ。
美咲の時も、自分は目の前にまで近づき、互いの呼吸が触れ合うほどの距離で視線を交わした。
あの熱と、あの想いが繋ぎ止めたのだ。
「……近づかないと」
健人は呟き、綾乃の方へと歩み寄った。
壁際に立つ綾乃は後ずさりしそうになるが、美咲の必死の声がそれを押し留めた。
「お母さん、お願い……健人くんを見て! 私のために……!」
その切実な叫びに、綾乃は躊躇しながらも足を止めた。
そして、健人はそのすぐ目の前まで歩み寄り、互いの顔が手を伸ばせば触れられる距離に迫った。
青白い光はなお揺らいでいたが、決して消えはしなかった。
「……お願いだから」
美咲の声が震える。
「お願いだから、お母さんを助けて……!」
次の瞬間、美咲は健人の背後からしがみついてきた。
その腕は健人の腰に回され、必死に後ろから押し付けるようにすがりついている。
「健人くん……お願い……!」
その力に背を押されるようにして、健人の身体は前へ傾いた。
気づいた時には、自分の姿が綾乃の淡い光の中に重なり合っていた。
「――っ!」
全身を包み込む感触があった。
冷たく青白い光ではない。
柔らかで温かく、心地よい波に全身が抱かれるような感触だった。
視界は一瞬で変わった。
暗い和室も、揺らめく燐光も消え去り、代わりに世界が淡いピンクの光に満ち溢れていた。
空気はほんのり甘く、優しい香りが鼻腔を満たす。桜の花のような、けれどもっと濃密で温かい匂い。
――なんだ、これは……。
健人は自分の手足がじんわりと熱に包まれるのを感じた。
心臓の鼓動が柔らかい波に溶けていくように、安心と眠気が一気に押し寄せてくる。
「……あったかい……」
思わず声が漏れた。
身体中が優しい抱擁に包まれ、痛みも不安も消えていく。
胸の奥の緊張さえも解け、ただこの温もりに委ねてしまいたいと思った。
目の前にはまだ青い光を纏った綾乃の姿が揺れている。
だが、それもまた淡い桃色の光に溶け込み、境界が失われていくように感じられた。
「お母さん……」
健人は誰にともなく呟いた。
その瞬間、甘い香りがさらに濃くなり、頭の奥まで痺れるように染み込んでいった。
まるで春の陽射しの中で微睡むように、意識は急速に沈んでいく。
背後からすがりついている美咲の温もりも、どこか遠くなっていった。
けれど確かにその存在は感じられる。
健人は最後の力を振り絞って、美咲に心の中で応えた。
――大丈夫だ。必ず……。
そう念じたところで、世界は完全に光に呑まれた。
視界は桃色の輝きに溶け、音も匂いも全てが混じり合い、ただ温かさだけが残った。
そして――健人の意識は深い闇へと沈んでいった。