(31)
「お前、本当に分かってないのか?」
もう一人の健人は、和室の薄闇の中で不敵な笑みを浮かべたまま、片眉をわずかに吊り上げた。冷ややかな眼差しが突き刺さり、健人は畳の上で足がすくむような感覚に襲われる。
「……何を言ってるんだ」
声が震えた。だが、相手はそれを楽しむようにわざとゆっくりとした口調で言葉を続ける。
「この世界だよ」
健人の背筋に冷たいものが走った。
「この……誰もいない世界。お前と美咲しか存在しない、空っぽの舞台。それを作り出したのは……他でもない、お前自身の望みだ」
「……俺の、望み?」
喉がからからになり、うまく言葉が続かない。
「そうさ」
男は口角を吊り上げ、畳をゆっくりと踏みしめてこちらへ一歩近づいた。
「お前は気づいていないふりをしているが、本当は心の奥でずっと思っていたんだ。“美咲と二人きりになりたい”ってな」
「……っ!」
胸の奥を鷲掴みにされたように心臓が跳ねた。否定しようと口を開くが、声にならない。そんな自分の動揺を見透かしたように、もう一人の健人はさらに言葉を畳みかける。
「でも美咲は母親のことを心配する。だから――お前は彼女のために綾乃も呼び寄せた。結果として、お前のそばには美咲と綾乃、二人が揃った。誰の邪魔も入らない、完全に閉じられた世界の中でな」
「違う……!」
健人はようやく声を絞り出した。喉の奥が痛む。
「そんなこと……俺は望んでない!」
男の冷笑が鋭さを増した。
「望んでない? 本当にそう思っているのか? じゃあなぜだ。なぜ、現実から切り離されたこんな世界が生まれた?」
「俺は……そんな力を使った覚えなんてない! そもそも……なぜ俺にこんな力があるのかすら分からないんだ!」
必死に吐き出した言葉は、まるで空虚な叫びのように和室に響いた。だが、相手は一向に動じない。むしろ楽しげに口の端を吊り上げ、深い溜息を漏らした。
「……やれやれ」
その声音には、呆れ果てたような冷ややかさがこもっていた。
「記憶を失くしてしまったのか。まったく、お前らしいと言えばお前らしいが……」
男は腕を組み、わずかに首を傾げてこちらを見下ろした。瞳は冷たい光を帯び、健人の心の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。
「自分が何を願ったのかも忘れて……そのくせ、“俺の望みじゃない”だと? 笑わせるな」
健人は立ち尽くしたまま、返す言葉を見つけられなかった。胸の奥では否定の声が渦巻いているのに、同時に、その言葉の一端が自分の心のどこかに触れてしまっている気がしてならなかったからだ。
和室の中に沈黙が落ちた。障子の外からは風の音ひとつ聞こえず、この世界の静けさがかえって耳に痛い。
健人は握りしめた拳に爪が食い込み、微かな痛みでかろうじて自分を繋ぎ止めていた。
「……記憶を失くした、だと……?」
震える声で問い返す。
だがもう一人の健人は、それ以上は答えず、ただ薄い笑みを浮かべ続けた。