日曜日, 8月 09, 2026

安堵と火照り

 (20)

美咲は、畳の上に横たわる母――綾乃の肩をそっと揺すった。

「……お母さん……ねえ、起きて……」


 その声に応じるように、綾乃のまぶたがゆっくりと震え、やがて開かれた。

 まどろみから引き戻されるような感覚の中で、視界に最初に飛び込んできたのは娘の顔。そして、その背後に立つ健人の姿だった。


 綾乃の胸が不意に熱くなった。

 健人の顔を見た瞬間、頬に熱が集まり、思わず視線を伏せる。

 彼の瞳の奥には、どこかこちらを包み込むような温かさがあって、それが心臓を強く締めつけた。


「……あの……ありがとう……」


 ようやくそれだけを口にしたものの、声はかすかに震えていた。

 娘の前で取り繕おうとしたが、どうしても頬の赤みは隠せなかった。


 ――あの光の中で、自分は何を見たのだろう。


 胸の奥に甦るのは、夢のような感覚。

 柔らかなピンクの光に包まれ、心がほどけ、抗えない奔流に巻き込まれるように意識を手放した瞬間。

 ただ「安心」や「穏やかさ」だけではなく、もっと奥深く、女としての芯に触れるような熱と震えが確かにあった。

 だがそれを口にすることなどできない。娘がすぐ隣にいる今、この胸の火照りを悟られるわけにはいかなかった。


 綾乃は黙したまま、震える指を畳に置いた。

 けれども、その火照りは収まらず、むしろじわじわと身体の奥から広がり続けていた。


 健人と美咲は顔を見合わせ、状況を確認しようとした。

「……とにかく、今は三人ともここにいる。お母さんも無事に戻ってこれた」

 美咲の声には安堵が混じる。

 しかしその次の言葉は、真剣な響きを帯びていた。

「でも、なんでこんなことになってるのか……やっぱり分からない。クラスの子も、街の人たちも、誰もいないし……」


 健人は深く息をつき、少し言いづらそうに口を開いた。

「美咲……やっぱり、俺の“視線”が何か関係してるんじゃないかと思うんだ。最初に美咲が言っただろ、俺に見られてると温かくなるって」


 その言葉に、美咲はうなずき、そして母へと顔を向ける。

「お母さんも……もしかして、健人くんの視線を受けたときに、何か感じなかった?」


 綾乃の心臓が跳ね上がった。

 視線だけで、あの熱が甦る。

 娘に問われて、どう答えればいいのか分からない。否定したいのに、言葉が喉につかえて出てこなかった。


 そんなときだった。

 健人が、ためらいがちに綾乃へと視線を向けてきたのだ。


 その瞬間――綾乃の世界は変わった。


 胸の奥から、熱い泉がふつふつと湧きあがる。

 血流が速まるように頬が熱くなり、呼吸が浅くなる。

 ただ見られているだけなのに、内側の奥深くが熱を帯び、脈動が伝わってくるような錯覚。


 ――これは……。


 綾乃は目を閉じた。

 視線の感触は、皮膚に触れる以上のものだった。

 娘が語っていた「チリチリとした痛み」とはまったく違う。

 それは炎のようでありながら、同時に優しく心を解き放つものだった。


 そして次第に、熱は一点に集まり、身体の奥底から熱情の奔流となって迸ってくる。

 抑えきれず、震えが指先まで伝わる。


 ――どうして……こんな……。


 彼の瞳と自分の心が、直接結びついてしまったような錯覚。

 長い間、妻であり母である自分が忘れていた「女」としての部分が、あまりにも鮮烈に呼び覚まされてしまう。


 「……はぁ……」


 思わず洩れた吐息に、自分自身が驚いた。

 目を開けると、健人の真剣な瞳がこちらを射抜いていた。

 その視線に触れるだけで、さらに熱が込み上げ、綾乃は胸元を押さえる。


 ――いけない、落ち着かなきゃ。娘の前でこんな姿……。


 だが、理性の声は熱にかき消されていく。

 恍惚に近い昂ぶりが全身を駆け巡り、言葉にならない感情が込み上げてくる。


 「お母さん……?」

 不安げな美咲の声。


 綾乃は必死に微笑みをつくり、首を横に振った。

「……大丈夫。ただ……ちょっと、熱いの」


 そう言いながらも、心臓は激しく打ち鳴らされ、身体の芯は収まりのつかない火照りに支配されていた。

 それは明らかに、健人の視線が引き起こしているものだった。


 ――どうして……この子の視線に、こんなにも……。


 理性と感情がせめぎ合う中で、綾乃は再び伏し目がちになり、震える唇を噛みしめた。

 しかしその奥で、胸の内に芽生えた感情は、もう止められるものではなかった。