日曜日, 8月 30, 2026

甘い香りと布団

 (25)

健人の背中は畳に押し付けられ、全身に重さと熱を感じていた。

 目の前には綾乃の顔。吐息が触れるほど近く、頬の火照りまでがはっきりと伝わってくる。


「はぁ……はぁ……」

 綾乃の荒い呼吸が健人の首筋を震わせる。


 ――駄目だ。振りほどかないと。


 そう思って腕に力を込めるが、綾乃の体重が意外にも強くのしかかり、自由が利かない。畳が背中に冷たく広がるはずなのに、押し当てられた身体の熱がそれを打ち消していた。


「綾乃さん、やめてください……!」


 必死に声を上げるが、その声は弱々しく、言葉と裏腹に動けない。なにより――目を逸らすことができなかった。


 視線をそらそうと、意識して横を向こうとするのに、どうしても綾乃の瞳に絡め取られてしまう。深い闇に揺れる光のように、吸い込まれて抜け出せない。


 その視線に囚われながら、健人の胸は苦しく高鳴った。

 彼女の頬の赤み、潤んだ瞳の揺らぎ。まるで熱に浮かされているかのように、綾乃は女の顔をしていた。


「……あの光の中で、俺……母親を感じてました」


 やっとの思いで吐き出した言葉は、自分でもよく分からないほどぎこちなく震えていた。


「え……?」


 綾乃の身体が一瞬硬直する。

 彼女の目に宿っていた熱が、不意に揺らぎ、迷いを帯びる。


「俺は……綾乃さんが母親として、美咲を大事にしてる、その気持ちに包まれて……安心したんです。温かいものに守られてるって、そう感じてました」


 健人の声は震えていたが、正直に言おうと必死だった。

 その言葉を耳にした綾乃の顔に、はっとした色が浮かぶ。


「……母親として……」


 綾乃は小さく呟いた。

 彼女自身はあの光の中で女の快楽に飲み込まれた。けれど、健人は母親のぬくもりを感じていた――その違いが突き付けられた瞬間、胸の奥で何かが砕けた。


 理性が戻ってきた。

 母としての自分が、必死に娘を育て、守ってきた年月が、今になって鮮やかに甦る。娘の前で取り乱した自分の姿が、途端に恥ずかしくてたまらなくなった。


「ごめんなさい……!」


 綾乃は震える声でそう言うと、健人の上から慌てて身を離した。

 畳に両手をつき、深く頭を下げる。その姿は、先ほどまでの激情をすべて押し込めようとするかのように必死だった。


 健人もようやく身体を起こす。胸は早鐘のように鳴り続けていたが、彼女の真剣な姿に、自分もまた心を整えようとした。


「……俺も、ごめんなさい。うまく言えなくて。美咲を不安にさせてしまいました」


 綾乃は目を伏せたまま、小さく頷く。

 短い沈黙が流れる。けれどその沈黙は、先ほどの重苦しいものとは違い、互いに後悔を分かち合うような色を帯びていた。


「美咲に……ちゃんと説明しなきゃ」

 健人が言うと、綾乃も頷く。


「そうね。あの子を安心させてあげないと」


 二人はゆっくりと立ち上がった。まだ胸の奥に動揺は残っていたが、それでも進まなければならない。


 襖を開け、廊下を歩く。家の中はしんと静まり返っていて、二人の足音だけが響いた。

 二階に上がる階段を踏みしめるたびに、健人の胸は締め付けられるように苦しかった。


 やがて、美咲の部屋の前に立つ。

 ドアの向こうからは、かすかなすすり泣きが聞こえてきた。


「……美咲」


 綾乃が小さく呼ぶが、返事はない。


 健人は迷った。けれど、意を決してドアノブに手をかける。軋む音とともにドアを開けると、そこは暗がりの中だった。


 月明かりが窓から差し込み、ベッドの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。

 布団の中に小さな影が潜んでいた。


「美咲……」


 綾乃がそっと近づく。だが、美咲は布団を頭までかぶり、小さく身を丸めていた。震える肩が、すすり泣きを物語っている。


 その姿を見た瞬間、健人の胸に痛みが走った。

 ――全部、自分が原因なんだ。


 美咲は、母と健人の間に何があったのか考えたくなくて、布団の中に閉じこもっていた。聞きたくない、知りたくない。けれど、頭の中では最悪の想像が膨らんでしまう。


「……いやだ……」

 布団の奥から小さく声が漏れた。


 それは母にも健人にも届くほど弱々しく、しかし確かに二人の胸を突き刺す響きだった。


 綾乃は唇を噛み、健人は拳を強く握る。

 二人とも言葉を失ったまま、布団の山を見つめて立ち尽くした。