(21)
和室に横たわっていた綾乃が意識を取り戻してから、しばらくの間、三人の間には言葉にならない沈黙が漂っていた。
月明かりに照らされる部屋は静かで、遠くから虫の声さえも届かない。まるで世界そのものが、彼ら三人を取り残してしまったかのようだった。
綾乃は座り直し、頬に手を当てながら健人の顔を見た。だが、その瞳と視線が触れ合うたびに、胸の奥がざわめき、頬がさらに赤く染まっていく。
普段なら娘の前で決して見せない、女としての動揺がそこにあった。
――いけない。落ち着かなきゃ。私は母親なのに……。
そう心で何度も繰り返しても、先ほど健人に見つめられたときの熱は容易に消えてくれなかった。理性の奥で押し殺してきた「女」としての感覚が、突如として呼び覚まされてしまったのだ。
美咲は、その母の表情を見て胸がざわついた。
これまでずっと、自分を守ってくれる優しい母親の顔しか知らなかった。食卓の笑顔、夜にかけてくれる毛布の温もり、叱る時でさえ愛情を含んでいた声。
けれど今、目の前にいる母は違う。
健人の視線を受けた瞬間に見せた表情は――まるで女としての喜びに震えているかのようで、娘である自分の方が恥ずかしくなってしまうほどだった。
「……お母さん、大丈夫?」
美咲は恐る恐る声をかけた。
綾乃は小さく息を整え、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「ええ、大丈夫よ。ただ……少し、不思議な感覚が残っていて」
その答えに、美咲は思わず健人を見た。
やっぱり何かある――。母の様子を見れば、健人の視線が原因であることは明らかだ。
けれど、母はそれをはっきりと言わない。だからこそ、美咲の胸の内にはもやもやした感情が膨らんでいった。
「ねえ、健人くん……」
美咲は意を決して口を開いた。
「さっき、お母さんを助けてくれた時……健人くんには、何が見えていたの?」
その問いに、健人は息を詰まらせた。
本当は伝えられない。ピンク色の光の中で、綾乃と心も身体も包み込まれるような不思議な感覚を共有したことなど。
正直に話せば、誤解されるどころか、壊れてはいけない関係を壊してしまうだろう。
「……それは……」
言葉に詰まりながらも、健人は何とか言い繕った。
「とにかく必死だったんだ。美咲の時と同じように、戻ってきてほしいって強く思って……ただ、それだけだよ」
そう答えた健人の表情には必死さがにじんでいたが、それが逆に美咲の疑念を深める結果となった。
――何かを隠してる。
健人の言葉は嘘ではないのかもしれない。けれど、母のあの様子を説明するにはあまりに足りなかった。
美咲は胸の奥で小さな棘のような感情を覚える。
自分に向けられる視線の温もりとは違う。母の反応は、あまりにも女らしく、そして艶めいていた。
――まさか、お母さん……健人くんのことを……。
頭に浮かんだ考えをすぐに振り払ったが、その残滓はしつこく心に残った。
一方で綾乃もまた、心の中で別の勘違いをしていた。
健人が自分を見つめてきたときに感じた熱。それは彼の無意識の力だと理解しているつもりだった。だが、それでも心は揺れた。
――健人くんは……美咲じゃなくて、私を……?
そんな思いが、一瞬よぎってしまったのだ。
もちろん、口にできるはずもない。母として、あまりにも許されない感情。だからこそ、余計に赤くなって俯き、娘に「隠している」と思われてしまう結果となった。
「……そう、なのね」
美咲は小さくつぶやき、どこか納得しきれない表情で視線を逸らした。
健人はその態度に不安を覚えた。
――誤解されたかもしれない。けど、言えないんだ。あの光の中で何があったのかなんて……。
焦る気持ちを抑えながらも、余計に言葉を選んでしまうことで、沈黙が長く伸びてしまった。
その沈黙の中で、三人はそれぞれ違う勘違いを抱えていた。
美咲は――母が女として健人に惹かれているのではないかと。
綾乃は――健人の視線が自分に特別に向けられていたのではないかと。
健人は――二人に余計な心配をかけないために事実を伏せざるを得ないと。
静まり返った和室に、三人の心音だけが響いているように感じられた。
その夜、彼らの胸に広がったのは、安心と同時に、互いを信じきれない小さな疑念だった。