日曜日, 1月 18, 2026

第十五話 知らない横顔

 その日、拓海はひとりで街を歩いていた。

本来なら、あかりと映画に行く約束をしていたのだが、あかりから「今日はちょっと用事がある」と連絡が入り、急遽キャンセルになった。


別に、気にするようなことじゃない。

最近のあかりは以前よりも活き活きしていて、自分の時間を持つことも増えていた。

それは喜ばしいことだ。拓海自身、あかりのそんな姿を見るたびに、安心もしていた。


……そう、安心していたはずだった。


「……あれ?」


人通りの多い駅前の大通り。

拓海は、交差点の向こうで、見覚えのある姿を見つけた。


小柄な体に、ベージュのカーディガンを羽織った人物――あかりだった。

髪は少し巻かれていて、口紅の色もいつもより華やかだ。

それだけでも、彼女が誰かと特別な時間を過ごしていることが伝わってくる。


その隣にいたのは――

艶やかな黒髪をなびかせ、上品なワンピースをまとった大人の女性。

高いヒール、洗練された所作。

一瞬で目を惹かれるような、美しさと自信を纏った人。


あかりが、彼女と歩いている。

しかも――笑っていた。


いや、それだけじゃない。

あかりのその笑顔は、拓海の知っているものとは違っていた。


いつものあかりは、どこか遠慮がちに笑っていた。

照れたように、目を細めて、控えめに表情を見せる。

でも今、彼女がその女性を見つめる瞳には、熱があった。

憧れとも、尊敬とも、恋しさともつかない――けれど確かに、特別な感情が込められていた。


拓海の足が止まった。

思わず歩道の陰に身を隠す。


気づかれてはいけない。

そう思ったわけじゃない。ただ、目を逸らすことができなかった。


二人の距離は近く、まるで長年の恋人同士のように自然に歩いている。

ときおり、あかりがその女性の腕にそっと手を添えたり、小さな声で何かを囁いたりする。

彼女の表情は、穏やかで、柔らかく、そして――幸せそうだった。


「……なんだよ、それ……」


拓海は、小さく呟いた。


胸の奥に、鋭い針を刺されたような痛みが走る。

あかりが誰と過ごそうと、彼女の自由だ。

だが、なぜこんなにも苦しいのだろう。


あかりは、男装している自分も本当の自分だと語っていた。

その自信を取り戻していく彼女を見て、拓海は心から応援してきた。

でも今、目の前にいるあかりは――拓海の知らない顔をしていた。


「……知らないよ、そんな顔……」


呟いた声は、かすれていた。


そうだ。あかりは、何も言っていなかった。

冴香という名も、彼女の存在も、すべて拓海は初めて知った。


なぜ黙っていたのか。

なぜ、これまで通りに接していたのか。

なぜ、その女性といるときだけ、そんな優しい顔をするのか。


答えは出ない。けれど、心は確かにざわついていた。


ふいに、女性があかりの耳元に何かを囁いた。

あかりは、ふっと笑って、ほんの少し頬を染めた。


その仕草が、あまりにも自然で、

あまりにも大人びていて、

拓海の中で何かが静かに崩れていくのを感じた。


――あかりは、変わってしまったのか?


いや、そうじゃない。

きっと、あかりはずっとそうだった。

ただ、自分の知らないあかりを、冴香という女性が引き出しただけなのだ。


そして、拓海には見せなかったその表情を、今、その女性にだけ向けている。


拓海は気づいていた。

あかりが悩んでいた頃、自分はただ「いつも通りのあかり」を求めていた。

安心させてくれるあかり、頼ってくれるあかり、変わらないでいてくれるあかり。


でも――


彼女は変わることを選んだ。

自分の心に正直になろうとしている。

そしてその隣には、自分ではない誰かが立っている。


交差点の信号が変わり、人波が流れ始める。


拓海は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


「……これが、答えなのか」


誰かに問いかけるように呟いたその声は、風にかき消された。


開けた瞼の先には、もうあかりと冴香の姿はなかった。

でも、その光景は拓海の胸に深く焼き付いていた。


まだ気持ちを整理できるわけじゃない。

ただ、たった今、自分の中の何かが静かに終わりを迎えたような、そんな感覚だけが残っていた。

月曜日, 1月 12, 2026

第十四話 揺れるまなざしの先に

 土曜日の午後。

人の波が緩やかなショッピングモールの中庭で、あかりは小さな噴水のそばに腰を下ろしていた。


胸の奥がざわついている。

それは、数日前から止まない揺れだった。


「私、冴香さんのこと……気になるのかな……」


呟いた言葉は、風に流れて消えた。


冴香に出会ってから、あかりの心はずっと波立っている。

拓海と一緒にいる時の安心感。

それとはまるで異なる、冴香と向き合った時の高揚。

どちらが本当の自分なのか、まだ答えは出せていなかった。


スマホを見ると、今日の予定には何もなかったはずだった。

それなのに、なぜかこの場所へ足を向けてしまったのは――


「やっぱり、来てくれたのね」


その声に、あかりは肩を跳ねさせた。


振り返ると、冴香がそこに立っていた。

すっと風を纏うような立ち姿、指先の仕草ひとつまで洗練された空気をまとっている。


「どうしてここに……」


「勘よ。あかりくんなら、きっと今日も迷ってる気がしたの」


冴香は微笑みながら隣に座り、バッグを膝の上にそっと置いた。

それだけの仕草が、なぜこんなに綺麗なのだろうと、あかりはふと思う。


「……ねえ、あかりくん」

冴香は静かに口を開いた。


「あなたが私を避けようとしてるの、気づいてたわ。でも……来てくれたのね。それがすごく嬉しい」


言葉に詰まりそうになりながら、あかりはかろうじてうなずいた。

冴香に会うのが怖かった。

この気持ちを直視するのが、怖かった。


冴香はしばらく沈黙した後、ふと視線を上げた。


「もう少し、ちゃんと話してもいいかしら?」


「……はい」


「私ね、あかりくんのことが――好きよ」


その言葉は、あまりに自然で、あまりに真っ直ぐだった。

装飾も比喩もなく、まるで呼吸するみたいに冴香は言った。


「は、はい……?」


「好き。恋愛として。あなたが男装しているかどうかなんて、正直どうでもいいの。私が惹かれたのは、あなたのまなざしであり、声であり、心なの」


胸が高鳴る。けれどそれは、喜びだけではない。

まるで見透かされてしまったような、不安と混乱が交錯する。


「でも……私……」


「わかってる。拓海くんの存在も、あなたが今、揺れていることも。

だけど、私は逃げないわ。だから――あなたの気持ちを聞かせて。今の、素直な気持ちを」


冴香の瞳が、まっすぐあかりを見つめている。

それは逃げ道のない深い湖のようで、あかりは思わず視線を逸らしそうになる。


だけど、逃げたくなかった。


あのときのラウンジ、カフェの帰り道、ふいに触れられた手――

全部が、私の中に少しずつ何かを積み上げていた。


「……怖いんです」

ようやく、声が出た。


「冴香さんといると、私、自分でも知らない感情が出てきて。男装してる自分を、自然に受け入れられる気がして。でも、これが恋なのか、それとも……誰かに必要とされる心地よさに酔ってるだけなのか、わからない」


冴香は優しく頷いた。

その仕草すら、安心できるようで、でも心をくすぐる。


「わからなくてもいいの。人の気持ちなんて、簡単に言葉にできるものじゃないから。だけど、あなたの中に“私に向けられている気持ち”があるのなら、私はそれを信じたい」


沈黙が流れる。


どこか遠くで子供の笑い声がして、噴水の水が柔らかく揺れている。


あかりはそっと息を吸った。


「私……冴香さんのこと、好きなのかもしれません。でも、それが恋かはまだ……」


「それで十分よ」


冴香はすっと手を伸ばし、あかりの指先に軽く触れた。

その温もりに、胸の奥がきゅっと締まる。


「その“かもしれない”から、始めましょう? 答えは、急がなくていいから」


あかりは、頷いた。


冴香の言葉は、まるで優しい風のようだった。

心に吹き込んで、くすぐって、でも無理には触れない。


たぶん、これが“大人の恋”というものなのかもしれない。


自分の気持ちはまだ定まっていない。

だけど、ここにある何かは、確かに自分の中に芽生えている。


その確かな芽を、今はただ静かに見つめていたかった。

月曜日, 1月 05, 2026

第十三話 揺れる香り

 冴香と再会するのは、なぜかいつも不意打ちだった。


駅の構内で、休日の書店で、カフェの前のベンチで。

どこか偶然のようでいて、まるで必然のように――あの人は、ふと私の前に現れる。


「また会えたわね。運命かしら?」


冴香の口元に浮かぶ微笑は、どこまでも艶やかで、どこか危うい。

男装をしていようと、私の心臓はいつもより早く鼓動し、口元が乾く。


一度目の出会いでは、ただ驚いただけだった。

二度目には、戸惑いの中で気恥ずかしさが勝っていた。


でも――三度、四度と会ううちに、私の心は確実に変わっていた。


「今日はどこまで歩けるかしら?」


そんな冴香の言葉に、私は思わず頷いてしまう。


ふたり並んで歩く夜道。

街灯の下、冴香の横顔は美しくて、どこか現実離れしていた。


「ねえ、あかりくん。あなたのこと、もっと知りたいわ」


その声は、耳に触れた風よりも、ずっと柔らかくて甘い。

“あかりくん”と呼ばれるたびに、私はふと意識が浮き上がるような心地になる。


気づけば、冴香との距離は確実に縮まっていた。

言葉のひとつひとつが、まるで肌を撫でるように優しくて、ふいに心の隙間に入り込んでくる。


そしてある晩。


人気の少ない路地裏のカフェで、ふたり並んでコーヒーを飲んでいた時だった。


「……あかりくん、今日はすごく綺麗ね」

冴香がふと、低く囁くように言った。


男装している私に“綺麗”という言葉は、予想外だった。

でも、冴香に言われると、それがしっくり来る気がする。

自分がどんな格好をしていても、冴香は“私”を見ているような気がして――それがくすぐったくて、こわい。


「そ、そうかな……ありがとう」

視線を逸らすと、冴香がそっと私の頬に手を添えた。


「どうして目を逸らすの? ……可愛いわね、そうやって照れるところも」


瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


まるで、少女漫画のヒロインになったような気分。

だけど、私は男装していて、あくまで“男の子”として見られているはずで――


「……ねぇ、あかりくん」

冴香の顔が、ほんの数センチ近づく。


「あなた、私にときめいてるわよね?」


その言葉は、冗談めいていながらも真っ直ぐだった。

嘘で返せない、でも本音を晒すには覚悟がいる――そんな問いだった。


私の中で、何かが揺れた。


たしかに冴香に会うたびに、心がざわついていた。

その声、目線、仕草――どれも私の心を少しずつ掴んで離さなかった。


でもそれは、本当に“恋”なのだろうか。

それとも、ただ大人の女性に翻弄されているだけ?


私は答えられなかった。


冴香はそれ以上は何も言わなかった。

ただ、微笑んで手を引き、静かにカフェを後にした。


帰り道、私は自分の手を見つめる。


さっきまで冴香が握っていたその手は、かすかに温もりを残していた。

それなのに、まるで熱を奪われたように震えていた。


「私……本当に、ときめいてるの?」


つぶやいた言葉が、夜風に消えていく。


拓海と過ごす時間も、大切なはずだった。

でも冴香といるときの私は、少し違う私になっていて――

その“違う私”を、私はどこかで求めている気がした。


冴香は、その“違い”に気づいて、近づいてきたのだ。


次に会ったら、きっと冴香はもう一歩踏み込んでくる。

その時、私はどうするんだろう。


わからない。

でも、心の奥底で、小さな期待が芽生えている自分に、私は気づいていた。


怖い。

でも――知りたい。


私の中に生まれた、この新しい感情の名前を。

日曜日, 12月 28, 2025

第十二話 知らない横顔

 最近のあかりは、どこか変わった。


いや、厳密に言えば――変わったというより、“整った”というほうが近い。

以前は、男装している自分と普段の自分の間で揺れていたような、そんな不安定な表情をよく見せていた。


けれど、今のあかりには迷いがない。


たとえば、服装。

以前は男装の日と女の子らしい服の日が分かれていて、どこか「選んでる」感じがあったけれど、今は違う。

どんな格好でも、その中に“あかり”らしさがある。

ボーイッシュなスタイルの日でも、スカートを履いた日でも、自分を偽っていない自信が滲み出ている。


「最近、何かあったの?」


ある休日、ふたりで並んで歩いていたとき、ふと聞いてみた。

街路樹の影が舗道に落ちて、日差しがちらちらと揺れていた。


「え? なんで?」

あかりは笑って、僕を見上げる。


「うーん、なんか、前より自然というか……吹っ切れた感じがして」

僕はありのままの印象を言葉にした。


「……ふふ、そうかも」

あかりは目を細めて、少し空を見上げた。


「前はね、男装してる時の自分と、女の子らしい自分と、どっちが本当なのか分からなくて……ずっともやもやしてた」


「うん。……知ってる」

あの時の、フードコートでの会話を思い出す。


「でも今は、どっちも“自分”だって思えるようになったの」

あかりの声には、しっかりとした芯があった。


「服装や振る舞いはその時々の表現でしかなくて、根っこにある私は、ずっと私なんだって。……ようやく、そう思えるようになったんだ」


その言葉に、僕は心の中で安堵した。

あかりが悩んでいたことを、近くで見ていたからこそ、今の落ち着いた表情にほっとする。


でも、同時に――ほんの少し、言葉にできない違和感が残った。


変わったことは、いいことのはずだった。

でも、その“変化”がどこか遠くに感じられた。

僕の知らない誰かとの出会いが、彼女にそう思わせたのだとしたら……。


「何か、きっかけがあったの?」

僕は自然を装って聞いた。


「うーん……内緒」

あかりはくすりと笑って、指先を口元に当てる。


冗談っぽい仕草なのに、なぜか心に引っかかる。


その夜、ベッドに寝転びながら考えた。

僕は、あかりの隣にいて、一番近くで支えられる存在でいたいと思ってた。

でも、あかりが強くなって、自信を持って、自分で進んでいく姿を見ると――誇らしい反面、どうしようもなく寂しさも覚えた。


僕の知らない時間、知らない誰か。

その中で成長していくあかりに、置いていかれている気がする。


自分が恋をしている相手が、少しずつ遠くなっていく――そんな感覚。


翌日、学校の昼休みに、あかりが男子に囲まれて笑っているのを見た。

男装したその姿は、どこからどう見ても“かっこよく”て、他の女子たちが憧れの目で見つめている。

あかりはもう、「ただの幼なじみ」じゃなくなっていた。


僕だけが知っているあかりは、どこかに行ってしまったんだろうか。


夕方、一緒に帰ろうと声をかけたとき、あかりは変わらない笑顔で僕に手を振った。

その笑顔に、僕の胸は少し痛んだ。


変わったあかりがまぶしいほど輝いていて、でもその光の中に、僕の居場所があるのか分からなくなっていた。


あかりが自分自身を肯定できたことは、何よりも嬉しい。

でも、そんな彼女の「進化」が、僕には少しだけ――寂しかった。


本当は、誰があかりに変化を与えたのか、聞いてみたい。

その人にどんな想いを抱いているのか、知りたい。


でも、それを聞いたら、もう戻れない気がした。


だから僕は、今日もただ隣を歩くだけだ。

変わっていくあかりの影に、少しずつ追いつけなくなっていくことに気づきながら――。

日曜日, 12月 21, 2025

第十一話 偶然という名の必然

 その日、あかりは拓海と一緒に映画を観てから、ショッピングモールを歩いた。

楽しい時間だった。

けれど、心の奥にはずっと、ある影が張り付いていた。


――冴香さんのことだ。


あの日以来、彼女からは何の連絡もなかった。

そもそも名刺には連絡先すら書かれていなかったし、私自身も自分の番号やアドレスを教えたわけではない。

それでも、いつかまた会える気がして――名刺はまだ、机の引き出しにしまってある。


夕暮れ、拓海と駅で別れたあと、私は一人、家までの道を歩いていた。

人通りの少ない並木道。

街灯がぽつりぽつりと灯りはじめる。

気温は少し冷えてきて、腕をさすろうとした時――声がした。


「また会えたわね、あかりちゃん」


振り返ると、そこにいたのは冴香だった。


時間が止まったように感じた。


「……どうして……ここが……?」


驚きと戸惑いで声がうわずる。

でも、冴香さんは微笑むだけだった。


「あなたのこと、少し調べたの。ごめんなさいね。名刺に連絡先、書き忘れていたでしょう?」


冗談めかして言いながらも、その目は真剣だった。

私は否応なく鼓動が早まるのを感じた。


「少しだけ、話せるかしら?」


「……はい」


気づけば、私は自然に頷いていた。


そのまま、近くの静かなカフェに入った。

窓際の席に座り、ホットティーを注文する。

以前と同じジャスミンの香りが、湯気の向こうに漂う。


「あなたに、また会いたかった」

冴香さんがそう言った瞬間、心が跳ねた。


「……私も、会いたいって思ってました」

正直な気持ちだった。


「でも、私……混乱してて。自分が何に惹かれてるのか、よくわからなくて」


「それでいいのよ」

冴香さんの声は、あくまで穏やかだった。


「気持ちは、ひとつに決めなきゃいけないものじゃない。大事なのは、あなたがあなたでいられる場所を、ちゃんと選べること」


私はその言葉に目を伏せた。

冴香さんといると、自分の心が、どこまでも裸になる。


「ねえ、あかりちゃん。今日のあなたの服、すごく似合ってるわ」

ふと、冴香さんが言った。


「男装してる姿、とても自然よ。無理してる感じがしない」


私は顔が熱くなるのを感じた。

褒められたことへの照れなのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。


「男装してる時の自分って……少し、強くなれる気がするんです」

ぽつりと呟いた。


「そうね。外見が変わると、心も自由になれる。私もそうだった」


冴香さんが語る過去の話――誰にも言えなかった自分、押し殺してきた思い。

そのすべてに私は引き込まれた。


そして、気づけば時刻は夜に差しかかっていた。


「そろそろ……帰らなきゃ」

私は言った。


冴香さんは、ふと立ち上がった。


「じゃあ、私が送るわ。家まで」


「えっ……でも……」


「心配なの。女の子を夜道に一人で帰らせるなんてできない」


そう言って冴香さんは、冗談っぽくウインクした。


……いや、私は今「女の子」に見えてる?


――なんて、頭の片隅で思ったけど、それを言葉にする余裕はなかった。


外に出ると、冷たい風が吹いていた。

その瞬間、冴香さんがさっと自分のコートを脱いで、私の肩にかけた。


「風邪ひくと困るから」


「……ありがとうございます」


肩にかかった布の重みと、そこに染み込んだ冴香さんの香水の匂いが、胸をきゅっと締めつける。


「……あかりちゃん」

家の前まで着いたとき、冴香さんが小さく呟いた。


「あなたに、ちゃんと伝えたい。私は、あなたに特別な気持ちを持ってる。

 たとえあなたが誰かを好きでも、あなたがどんな姿でも――私は、あなた自身に惹かれてる」


私は息を呑んだ。


胸が、痛いくらいに高鳴っていた。

拒絶の言葉は、出てこなかった。


それどころか、口の端が、自然に笑みに変わるのを感じた。


「……ありがとうございます」

私の声は、少し震えていた。


でも、それでも、ちゃんと目を見て答えた。


この時、私は確かに――冴香さんの言葉に、心を動かされていた。

日曜日, 12月 14, 2025

第十話 触れてしまった温度

 シティーホテルのラウンジで過ごした時間は、まるで夢の中のようだった。


冴香さんは、言葉の端々に柔らかさと余裕を纏っていて、それでいて私の心のひだにそっと触れてくるような、不思議な魅力があった。

私が迷っていることも、言葉にできない思いも、全部察してくれるような眼差し。


「このあと、少しだけ散歩しない?」

紅茶を飲み終えたあと、冴香さんがそう言った。


私は頷いた。心が自然に「もっと一緒にいたい」と言っていた。


ホテルを出て、夕暮れに染まりかけた街を歩く。

季節の風が髪をなでる。

冴香さんは私の歩幅に合わせて、隣を歩いてくれた。


「……私、最近までずっと、“普通”でいることが正しいんだって思ってました」

ふと、自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。


「女の子らしくして、誰かの期待に応えるのが、当たり前だって……でも、男装してみたら、すごく落ち着いて。でも同時に、怖くなったんです。これが本当の私だったら、今までの私は何だったんだろうって……」


冴香さんは立ち止まり、私を見つめた。


「その感覚、すごくよく分かるわ」

彼女の声は、静かなのに力強い。


「私も若い頃、自分の中にある“普通じゃない部分”を隠して生きてきた。けれどある日気づいたの。隠しても消えないものなら、それは“本物”だって」


“本物”という言葉が、胸に刺さる。

私の中にある、この揺れる感情も、誰かに認められたい気持ちも、全部……本物?


「あなたの中にあるそのままを、私は素敵だと思うわ」

冴香さんが言った。


その言葉が、心をほどくように響いた。


そして――彼女はそっと、私の頬に触れた。

指先が、優しく肌をなぞる。


「……触れてもいい?」


一瞬、答えられなかった。

でも私は、目を逸らさずに、小さく頷いた。


冴香さんの手が、私の頬から首筋へ、そして髪を優しく撫でた。

誰かにこんなふうに触れられるのは初めてで、でも不思議と嫌じゃなかった。


むしろ――心の奥にあった何かが、やっと見つけられたような感覚がした。


そのまま、静かに距離が縮まって、唇が触れそうになる。


だけど、その瞬間――私の中で、拓海の顔がよぎった。


いつも笑ってくれる拓海。

一緒に帰った放課後。

私が男装を始めたことを、何も言わずに受け止めてくれた彼。


私は――誰を見ているんだろう?


冴香さんの目を見つめながら、心の中で問いかけていた。


けれど、冴香さんはそんな私の迷いも察したように、ふっと微笑んで距離を戻した。


「ごめんなさい。急ぎすぎたかしら」


「……いえ。違うんです。ただ……私、自分でもよく分からなくて」


「わかるわ」

冴香さんは優しく頷いた。


「心は、すぐに答えを出せるものじゃない。でもね、焦らなくていい。あなたがあなたでいる時間を、私は大切にしたい」


その言葉に、私はほっとした。

目の前の人は、私を追い詰めるんじゃなくて、見守ってくれている。


「今日はありがとう。すごく、心が軽くなりました」


「それはよかった」

冴香さんは、少し淋しげに微笑んだ。


「また、会ってくれる?」


「……はい。私も、もっと知りたいです。自分のこと。そして、冴香さんのことも」


その言葉に、彼女の表情がやわらかくほどけた。


「じゃあ、また連絡するわね。気をつけて帰って」


別れ際、冴香さんは私の手をそっと包むように握ってくれた。

その温もりが、しばらく消えなかった。


歩き出した帰り道。

私はそっと胸に手を当てた。


――私は、誰に惹かれているの?


揺れる心のまま、夜の空を見上げた。

日曜日, 12月 07, 2025

第九話 もうひとりの私へ

 拓海と別れたのは、夕方近く。

駅の改札前で「じゃあな」と手を振る彼に、私も笑顔で応えたけれど、胸の奥はまだざわざわしていた。


男装してる自分。

女の子のままの自分。

どっちも嘘じゃないのに、どっちかを選ばなきゃいけないような気がしてしまう。

拓海は、どっちでも「お前はお前」だって言ってくれた。

でも、自分ではまだ答えが出ない。


少し歩いて、人気のない公園の前で足を止めた。

ベンチに腰を下ろし、バッグの中の名刺を取り出して指でなぞる。

あの妖艶な女性――冴香さん。

「君みたいな子、なかなかいない」

その言葉が、何度も頭をよぎる。


その時だった。


「やっぱり、会えた」


聞き慣れた、低く艶やかな声が耳に届いた。

驚いて顔を上げると、そこには黒いサングラスをかけた冴香さんが、ベージュのロングコート姿で立っていた。


「少し、いいかしら?」


言葉より先に、心臓が跳ねる。

まるで映画のワンシーンみたいに現れたその姿は、現実離れしていて――けれど、確かに目の前にいた。


「え……あの……」


「驚かせちゃったかしら? でも、君にもう一度会いたくて、来てしまったの」


サングラスを外した冴香さんの瞳は、まっすぐに私を見ていた。

視線の熱に、思わず目を逸らしそうになる。


「少し、お茶でもしない? 駅の近くに、いいラウンジがあるの。静かで話しやすいのよ」


一瞬、断ろうとした。

でも言葉は喉の奥で止まった。


このまま断ったら、私はずっと逃げてしまう気がした。

自分の中の何かから、目を逸らしたままになる気がして――。


私は小さく頷いた。


「……はい。少しだけなら」


冴香さんは、嬉しそうに口元を緩めた。


駅の近くのティーホテルのラウンジは、静かで落ち着いた空間だった。

高い天井と、柔らかな灯り。

テーブルの上には小さなランプが置かれていて、冴香さんの横顔をやさしく照らしていた。


「今日はお友達と?」


「……はい。幼なじみで」


「あら、いいわね。彼、少し嫉妬してたかしら?」


冴香さんは冗談めかして笑った。

でもその目は、探るように私の表情を見ていた。


「嫉妬って……そんな……」


「でも、あなたが男装してること、どう思ってるのかしら。ちゃんと、理解してくれてる?」


言葉に詰まった。

拓海の言葉は嬉しかった。けれど、まだ“理解”されているとは、言い切れない気もした。


「正直に言っていいかしら?」


冴香さんが少し身を乗り出した。


「私は、男装してるあなたの姿を見たとき、雷に打たれたみたいな衝撃を受けたの。美しさと、強さと、でもどこか壊れそうな儚さ……すべてが混ざっていた」


言葉が、胸の奥を揺らす。

拓海とは違う種類の眼差し。

けれど、その眼差しもまた、確かに私を見てくれている気がした。


「あなたのことを、もっと知りたいと思った。男装が好きとか、そんな表面的なことじゃなくて、あなた自身を」


「……私を?」


「ええ。あなたは今、きっと自分の中の“もう一人”の自分と出会ってしまったのよ。私は、その人の背中をそっと押したいだけ」


ラウンジの中で流れるピアノのBGMが、まるで時間を止めているようだった。

私は紅茶に口をつけながら、自分の心が静かに熱を帯びていくのを感じていた。


「……私、自分でもよくわからないんです。男装してる自分が好きなのか、誰かに認められるのが嬉しいのか……」


「わからないままで、いいの。答えはすぐに出す必要なんてないわ。でも、私なら……その迷いごと、抱きしめられる」


心臓が跳ねた。

まるで恋人に言われたみたいに、心が温かくもざわついていた。


そして私は――静かに息を吸って、頷いた。


「もう少しだけ……一緒にいてもいいですか?」


冴香さんは微笑んで、私の手の上にそっと自分の手を重ねた。